【連載】中島卓偉の勝手に城マニア
第73回「本佐倉城(千葉県)卓偉が行
ったことある回数 2回」

千葉県が何故千葉という地名かと言えば、歴史上古くから千葉氏が治めていたからである。千葉の佐倉と言えば佐倉城が有名かもしれないが、城マニアは違う。佐倉城よりも歴史が古い本佐倉城が千葉県の城の原点と言っても過言ではないのである。関東屈指の大規模城郭、本佐倉城の紹介だ。築城年代は1400年代、戦国時代より全然前である。千葉氏は16世紀の中期頃に北条氏の傘下に入ることになるが、城の拡張はどんどん行われ1590年の千葉氏滅亡の頃までひたすらに続けられたとされる。ただでさえとてつもなく大きく広大な場所に建てられた城。もし滅亡がなかったらどこまで大きな城になっていたんだろうか?16ビートで踊れないファンのために仕方なく8ビートの曲を書いていた卓偉、もし好きなように曲を書いていたら今頃どうなっていたんだろうか?少なからずこんな乏しく中途半端なデビュー20周年ではなかったと言い切れる。
まずこの城の素晴らしいところは、建てた場所、これに唸る。城の搦手は香取の海、そして辺り一面は湿地帯、そこに浮かぶ幾つもの丘を利用して築城されている。現在その湿地帯だった場所は田んぼになっているのでその田んぼが当時は言わば滑った掘になっていたとイマジンしていただければ攻めるのに非常にタチの悪い城ということがわかる。最初は本丸である「城山」「奥の山」周辺だけの城だったのをどんどん増築し、三の丸とも言える「荒上」出丸とも言える「向根古谷」が城の外をしっかりと防御。いづれこの部分も城にする予定でこの地を選んで建てたのかもしれない。向根古谷の周辺が大手とされるらしいが、現在は民家が建てられその姿をまじまじと見学することは難しい。今でも畑の中に土塁や空堀や土橋が綺麗な状態で残っている。見学コースになっていないのが残念なほどだ。大手はここから奥の山を真向かいにして道を下っていく。大手より本丸が低いという縄張りに私は弱い。しかも城の外からは見えないが城のど真ん中が水で覆われているという状態。あたり一面が言わば掘、いやこれはもう池、ちょっとした湖な感じだ。丘の麓を縁取るように道が設けられ、現在は東山馬場に駐車場が出来ており、ここから入城出来るようになっている。大手からどうやって本丸までの道順が出来ていたかはわからない。城の作りを見てもそれがイマイチ入ってこない。どこがサビかわからない。まさに一筋縄にはいかない難攻不落なPink Floyd的な城と言えるだろう。初めて来た時は現在のように発掘調査がされてなく、よっぽどわかりづらくPink Floydな感じだったが、近年の発掘調査により、屋敷の跡や虎口の発見、インフォメーションや掲示板が増え、とても見学しやすく大事マンブラザーズの曲調くらいわかりやすくなっている。だが二度目に行ったときも意外にも迷う城なのだ。今どこにいるのかがわからなくなる面白い地形をしている。それはやはり自然な地形を利用しているので四角く整備された城ではなく、どこもかしこもカーブしまくり、空堀を掘った土を高く盛って作った土塁、当然全て人力で作られたものなのだが、それが良い意味で整ってなくて全てが豪快なのだ。細かいことは気にせず作った感が半端ない。それが見事に威圧感を打ち出している。とっても不良な、かと言ってとても知的で、ってそれでいてセクシーな城だと言える。そう、とても不良っぽいのだ。ヤンキーではない。白洲次郎な方にしてくれ、頼む。ハンドルは決して太くない。真ん中にアストンマーチンやジャギュアーのエンブレムが入った細いハンドルでカーブを切る、そういう不良で頼む。ヤンキー頼む、50キロで走る私の品川ナンバーを煽るのはやめてくれ、30キロで走っていたならまだしも50キロで走る私を煽るのはやめてくれ、頼む。追い抜く時に私の刺青を見てよっぽどアクセルを踏んで立ち去って行くのもやめてくれ、頼む。
見所はここが一番すごいっていうことではなく、全部凄い。天守台こそないが、空堀の深さ、土橋の存在感、突然の堀切、虎口のシャープさ、どこをとっても中島卓偉の才能と同じように魅力に溢れている。個人的に感動した場所を言えば、セッテイ山という大きな曲輪の両サイドに設けられた空堀、ここにはため息が出る。堀りの中を歩くことも出来るので是非堀ウォークしていただきたいのだが、先が見えないようにカーブになっているところもセンスを感じる。セッテイ山は接待に使われたとされる曲輪だが両サイドが崖のような堀で、しかも逃げ道がない独立した曲輪なので来客もビビったであろう。何か特別な曲輪として存在していたことが伺える。セッテイ山から城の外に上がって行くとこれまたいくつもの曲輪が存在する。綺麗に芝生で平地になった曲輪もある。その先にある三の丸とも言える曲輪「荒上」は現在民家になっているので細かくは見れないが、その更に外にある道は空堀と堀切ということらしい。確かに車で走ると空堀感が半端ない、道が後付けされたことがわかる。この堀が海に向かって落ちて行ってるところも非常にCOOLである。この荒上の大手側に土塁と空堀があると聞き、民家の外から探したが見つけきれなかった。この辺一帯は根古屋になっており、たくさんの家臣と家来が住んでいたとされる。根古屋にすれば城の外側を防御出来る事にもつながるので一石二鳥でもあるわけだ。千葉氏の滅亡がなくこの城が廃城にならなかったら根古屋の外にも相当大きな外堀が作られたことがイマジン出来る。どんな城も根古屋が増えて、その周りを外堀にしたことから城の面積が大きくなっていったことが伺える。
その他に個人的なイマジンとして思うのは、本丸と言える城山と二の丸と言える奥の山の間にある堀切だが、ここは当時上に渡れるように橋が架けられていたと思う。土塁の切り方を見れば一目瞭然だ。もちろん堀切の意味もあるのだろうが城の面積を考えると移動も大変、曲輪と曲輪の間には木橋は必要不可欠と言える。現在その堀切は崩れないようにBMWのグリルのような網で土を修復されている。奥の山はスペースもあるのでそれなりに大きな御殿などが建っていたはず。この城に天守はなくとも東山の土塁の先には物見櫓も存在したはずだ。当時はこの麓まで海水が来ていたとされるので当然この辺りの土塁には高さがある。よって東山馬場の虎口は非常に頑丈で土塁も厚みがある、そして何度かに折れ曲がっている。これがとにかくハイセンスだ。単に面で壁にするだけでは芸がない、折れ曲がるからこそ敵も一気には攻められないわけだ。その虎口の外になだらかな「東光寺ビョウ」という丘があるが、私のイマジンだとここは船着場だったんじゃないかと思う。搦手にこういう船着場があることで非常事態ではすぐ逃げれるし、大手や荒上からはそれが見えない、これがポイントだ。武士である以上出来れば逃げたくはない、でも逃げるしかない時はせめて逃げるところを見られたくはない、T-BOLANなら離したくはない。搦手から攻められたとしてもこれほどの土塁が立ちはだかっていれば威嚇も十分だ。まさに地形の勝利、そんな本佐倉城なのである。
二度目に来城したのはtvkのミュートマ2のロケであった。当日はあいにくの雨。見学者は我々しかいない状況かと思いきや、50代のおじさんがパンフレットを片手に傘をさして城を見学されていた。何度かすれ違い挨拶もしたが、このおじさん、いつも、常に、ニヤニヤしていた。わかる。城に来るとニヤニヤしちまうの。わかるよ。大概一人で城に来てる人はにやにやしている。そして数々のディティールに、ハイセンスに、仕掛けに、縄張りに感動してにやけてしまうのである。天守や櫓をどーん!と見せられるよりもイマジンが必要とされる場所に立つ方が1億倍感動するのである。だからこそニヤニヤしてしまうのである。安心してくれ、変態ではない。いや変態と言われてもしょうがないか。
T-BOLANの「離したくはない」で思い出したことがある。住み込みで新聞屋のバイトをしてた頃、T-BOLANの「離したくはない」に入れ込んでる先輩がおり、この人はとにかく「離したくはない」が好き過ぎるらしく、朝昼晩、常に「離したくはない」を聴いていた。T-BOLANが好きというより「離したくはない」が好き過ぎるといった感じだった。この曲をとにかく共有したいらしく、「俺、この曲大好きなんだよ」から始まり、「聴いてみろよ」になり、朝会うと「今朝聴いた?」になり、しまいには「なんで聴かねえの?」になり、最後には絡まれるという。先輩はチラシを新聞に入れながら小さな声で離したくはないをいつも歌っていたが、この人はとんでもなく音痴でBメロになると転調してしまい、サビになるともっと転調してしまう。これを聴くたびに、おい!どこに転調してんだよ、それ転調じゃなくてむしろ変調だろと心でいつもツッコミを入れていた。この先輩はある日集金バッグを持って飛んでしまった。荷物の残された彼の部屋を片付けなくてはならず、別の先輩と彼の部屋に入ったところCDが一時停止のまま回っていた。プレイボタンを押すとアホかというくらいのビッグボリュームで「こ~んな~に~!エ~ヴリ~デ~エ~イ!エ~ヴリ~ナ~ア~イ!」と「離したくはない」がかかった。もう一人の先輩は言った。「あいつこの曲大好きだってわりに、このCD持ってかなかったんだな」何が離したくはないのかわからない瞬間だった。

あぁ 本佐倉城、また訪れたい…。

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