『エキゾティック×モダン アール・
デコと異境への眼差し』展レポート
ファッションからジュエリーまで、パ
リが出会った異国の魅力

1910年代半ばから1930年代にかけて流行したアール・デコ。アール・ヌーヴォーの時代に続き、フランスを中心に発展したデザイン様式には、多様なイメージソースが含まれていた。その中でも、異国趣味をあらわす「エグゾティスム」をテーマにした展覧会『エキゾティック✕モダン アール・デコと異境への眼差し』が、東京都庭園美術館にて開幕した(会期:〜2019年1月14日)。
《黒と白》 マン・レイ 1926年 東京都写真美術館蔵
アジアや中東、アフリカなど非ヨーロッパ圏の文化・美術との出会いは、アール・デコの造形や美意識に大きな影響を与えたと言われている。本展は、ファッションやジュエリーといった装飾美術を含む約90点の作品を通して、新たな造形が生まれた背景を探るもの。当時のパリを賑わせたエキゾティックな雰囲気も味わえる会場より、見どころを紹介しよう。
《東洋への誘い》 里見宗次 1936年 ×△○ BA-TSU ART GALLERY蔵
《ゴンベレ》 エミール=アドルフ・モニエ 1930年頃 30年代美術館(ブローニュ=ビヤンクール)/フランス国立造形芸術センター(CNAP)より寄託
展示風景

ファッションに取り入れられたエグゾティスム
東京都庭園美術館学芸員の関 昭郎氏は、エグゾティスムについて「19世紀以前の、自分たちの国にはないものに対して面白いと思い、興味を抱くこと」から、20世紀になって「新しい様式に生まれ変わるためのきっかけになり、新たなスタイルを作るために海外(非ヨーロッパ圏)の美術を参照していく」ように変化したと説明する。そのことで、アール・デコが花開いていったという。
ローブ ポール・ポワレ 1920年頃 藤田真理子、ポール・ジュリアン・アレキサンダー蔵
西洋の伝統から脱却し、モティーフの引用にとどまらず、フォルムや色彩も東洋や中近東のものを参考にしたのが、ファッション・デザイナーのポール・ポワレだ。自らが着用したローブは、中国的なモティーフだけでなく、清朝の皇帝服のような裾広がりのデザインを取り入れている。
アフタヌーン・ドレス《シャンペトル》 ポール・ポワレ 1911年 藤田真理子、ポール・ジュリアン・アレキサンダー蔵
ポール・ポワレ夫人が着用したドレス《シャンペトル》では、首回りのカットやドレスのシルエットに、イスラム圏のワンピースのフォルムを参照している。一方、胸元や袖の部分にはレースを加えてフランス的に仕上げることで、現代的なデザインに再構築した。
1922年にツタンカーメン王墓が発見されると、パリにエジプト・ブームが沸き起こる。これに応じて、ヴァン クリーフ&アーペルはエジプト風のジュエリーを発表し、人気を博した。
左:《エジプト風ブレスレット》 ヴァン クリーフ&アーペル 1924年 ヴァン クリーフ&アーペル蔵、中央:《ターバン留めのブローチ》 同作者 1924年 右:《エジプト風ブローチ》 同作者 1925年
また、植民地となっていたアラブ・インド圏のマハラジャたちは、19世紀後半から国外に出ることを許される。裕福なマハラジャたちはパリに出て、自分たちの宝石を使ってジュエリーを作らせたそうだ。
ほかにも、ファッションの最新流行を伝えるファッション・プレートと呼ばれた版画には、東洋趣味をうかがわせる服飾や家具が多数描かれた。
「まえが大きく開いた絹ブロケードの部屋着に、寒冷紗の内着」『ジュルナル・デ・ダーム・エ・デ・モード』より(No.29 PI.61) ジョルジュ・バルビエ 1913年 島根県立石見美術館蔵
「シェエラザード」『モード・エ・マニエール・ドージュルドュイ』より(PI.9) ジョルジュ・バルビエ 1914年 島根県立石見美術館蔵

漆の流行とアール・デコを象徴するふたりの女性
アール・デコの装飾美術に用いられた輸入素材の中でも、特に愛用されたのが漆だった。工芸家のジャン・デュナンは、1912年にフランスで工芸家の菅原精造に出会い、漆の技術を学んだ。木製パネルに色漆を使った《栗の木》や、多色漆の屏風《森》など、多数の漆作品を残している。
《栗の木》 ジャン・デュナン 1922年 東京国立近代美術館蔵
《森》 ジャン・デュナン 20世紀前半 モビリエ・ナショナル(パリ)蔵
《屏風》 菅原精造 1927-28年頃 個人蔵

さらに本展では、アール・デコのアイコン的存在となった女性、ジョセフィン・ベイカーとナンシー・キュナードを紹介している。
『黒い喧騒』 ポール・コラン 1929年頃 30年代美術館(ブーローニュ=ビヤンクール)蔵
バナナの房状のスカートを履き、艶やかなダンスを披露した黒人ダンサーのジョセフィン・ベイカー。1925年にアメリカからパリへやってきた彼女は、瞬く間にパリの民衆を虜にして、ジャズの流行と共に時代の寵児となった。
《シャンゼリゼ劇場 バル・ネーグル》 ポール・コラン 1927年 ×△○ BA-TSU ART GALLERY蔵
豪華客船を運航するキュナード船舶会社の令嬢であったナンシー・キュナードは、黒人ミュージシャンと結婚し、人種差別と向き合った。アフリカの文化を愛したナンシーは、象牙や木で作られたブレスレットを2,000個ほどコレクションしていたという。
《ナンシー・キュナード》 セシル・ビートン 1924年 神戸ファッション美術館蔵
パリ国際植民地博覧会による異国との出会い
1931年に半年に渡って開かれたパリ国際植民地博覧会では、「一日で世界一周」をキャッチコピーに、各地域の特徴を示すパヴィリオンが並んだ。植民地支配による搾取の構造が批判を受ける中、この博覧会は、植民地主義政策を啓蒙する意図が含まれていたという。
《1931年パリ国際植民地博覧会》 ヴィクトル・デムール 1931年 ×○△ BA-TSU ART GALLERY蔵
左奥から、《フランスに貢献する植民地》、《植民地に恩恵を与えるフランス》 エヴァリスト・ジョンシェール 1931年 30年代美術館(ブーローニュ・ビヤンクール)蔵

1920年代には、自動車会社シトロエンによるアフリカやアジア横断プロジェクトが成功を収め、人々の異国に対する興味を刺激した。アレクサンドル・ヤコヴレフは公式画家としてこのプロジェクトに同行し、現地の人々の姿を描き残している。
『アフリカのデッサンと絵画集』 アレクサンドル・ヤコヴレフ 1927年 東京都庭園美術館蔵
一方、アカデミー(美術団体)の美術家たちには、植民地各地での海外研修の機会を与えるコンクールが設けられた。関氏は、こうした賞の存在について以下のように解説する。
「美術家の海外派遣は、植民地に対する国民の関心を高める意味や、植民地政策の一環として、フランスの美術教育を現地に植え付ける役割も果たしていました。政治的意図が反映されながらも、現地に赴いた作家の中には、マウリス・ド・ビュゾンのように、現地の人たちに溶け込み、同化していく人もいました」
右:《ラバトの墓地》 マリウス・ド・ビュゾン 1919年 30年代美術館(ブーローニュ=ビヤンクール)蔵 左奥:《コナクリのロス諸島》 マルセル・アッカン 1922年 30年代美術館(ブーローニュ=ビヤンクール)蔵
第一次世界大戦の戦死者の墓地を描いた《ラバトの墓地》は、「アフリカの人たちの心象を象徴するような作品」であると、関氏は評価する。
また、パリ国際植民地博覧会の敷地内では、柵のない動物展示が話題となり、フランソワ・ポンポンをはじめとした動物彫刻家たちも熱心に足を運んだという。ポンポンは、日本の工芸や古代エジプトのレリーフからシンプルな形態美を吸収し、それらを作品に取り込んでいる。
《シロクマ》 フランソワ・ポンポン 1923-33年 群馬県立館林美術館蔵
特別展『エキゾティック✕モダン アール・デコと異境への眼差し』は、2019年1月14日までの開催。博覧会やコロニアル・アート(植民地芸術)を通して他国に触れ、異文化と出会ったパリの人々の心境に思いを馳せてみたい。

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