50周年を迎え、
今も語り継がれる伝説の
ロックフェス『ウッドストック』
フェスにおけるボブ・ディランと
吉田拓郎へのヤジ
日本での野外フェスの草分けで、69年に始まった『中津川フォークジャンボリー』の第3回(71年)に出演した吉田拓郎が岡林信康や高田渡らのファンからヤジられたり、ジャズヴォーカリストの安田南のステージでは暴徒が乱入してフェスを妨害するといった事件が知られているが、世界的に体制と反体制が二分化していた時期なのである。60年代の後半になるとロックも表現手法が複雑になって音楽性や芸術性の高いものが生み出されるようになり、多くの支持を集めるまでに成長する。ほんの数年で、ディランへのバッシングはまるで遠い過去の出来事のように霧散していく。
『ウッドストック・フェス』への道のり
ラングはウッドストックにレコーディングスタジオを建設し、ディランやジャニスなどの多くのアーティストに使ってもらうのが夢であった。その資金を捻出するためにもっと多くの人が集まる野外フェスを開催しようと、キャピトルレコードのアーティ・コーンフェルドに相談すると、資金集めには大きなフェス(ラングはノウハウがあるから)をやるべきだという結論に達し、ジョン・ロバーツ(資産家)とジョエル・ローゼンマン(弁護士)に資金の調達を依頼、賛同を得ることができた。
しかし、何と言っても最大の問題は、大きな野外会場を確保することだ。ウッドストックは東部とはいえ保守的な田舎であったからフェスの会場探しは困難を極めた。最終的にウッドストックから少し離れたホワイトレイクにあるマックス・ヤスガー農場に決まったものの、場所が決まったのはフェスの1か月半前のこと…。
出演者のブッキングは、当時圧倒的に人気があったCCRの獲得にまず成功する。CCRが出るのならばと、他のアーティストも次々にサインし、30組を超える出演者が決定した。ラングが手がけた前年の『ポップフェス』にマザーズを率いて出演したフランク・ザッパは、田舎での野外フェスに難色を示し辞退している。