【 text by 北村紗衣 】 あの後、
何が起こったの?~『人形の家 Part
2』

ルーカス・ナスの戯曲『人形の家 Part2』が2019年8月9日より紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで上演される(9月1日迄)。常田景子の翻訳で、栗山民也が演出を手掛け、永作博美、山崎 一、那須 凜、梅沢昌代の4人が出演する。企画・製作は株式会社パルコである。この作品は、イプセンの『人形の家』の続編として創作されたもの。ブロードウェイ初演は2017年、トニー賞8部門にノミネーションされ、最優秀主演女優賞( ローリー・メトカーフ)を受賞した。日本での初上演も迫る中、このほどSPICE編集部は、「フェミニスト批評」を通じて新たな世界観を提示する俊英・北村紗衣氏に、『人形の家 Part2』注目ポイントの解説を依頼した。北村氏は近著『お砂糖とスパイスと爆発的な何か ― 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門 ―』が“爆発的”なベストセラーとなっている一方、saebou名義でSNSの世界においても活発な発信を続ける、気鋭の英文学者/舞台芸術史研究者である。『人形の家』に興味をお持ちの方、『人形の家 Part2』を観るべきか思案されている方は、ぜひ以下の論考をご一読いただきたい。
(SPICE編集部)

■お気に入りの作品が終わった後には、いったい何が起こるのか?
 『風と共に去りぬ』が終わった後、ヒロインのスカーレット・オハラはレット・バトラーを取り戻せたんだろうか?『リア王』が終わった後、王位継承者がみんな死んでしまったブリテンの王になるのはいったい誰だろう?『高慢と偏見』が終わった後、身分も財産も段違いのダーシーと結婚したエリザベスは周りの意地悪な人たちにいじめられないだろうか?『カサブランカ』が終わった後、イルザと別れたリックはどういう生活をしていたんだろう?
 優れた古典というのは、見終わった後、読み終わった後に、登場人物がその後どうなったのか、気になってしまうものだ。作品はそれじたいで完結しているもので、登場人物は実際に生きているわけではないとわかっていても、ついつい想像してしまう。こういうことが起こるのは、登場人物が生き生きと描かれていて、作者どころか作品からも離れて独自の生を歩んでいるように見えるからだ。登場人物のその後の運命が気になるようなら、その作品は成功作だと言ってよい。
 ノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセンの代表作『人形の家』も、そういう作品だ。この戯曲は1879年に刊行され、デンマークで初演されたが、19世紀末の北欧では驚きをもって迎えられた。良き妻だったヒロインのノラが紆余曲折の末、家庭を捨てるという結末は、当時の観客にとってはショッキングだった。離婚は今よりはるかにスキャンダラスな行為だったし、夫トルヴァルは暴力を振るうとか、愛人を作るというような典型的なダメ夫ではない。それなのに、妻のノラが自立を求め、子供を置いて家出するというのは、社会的に受け容れにくい展開だった。『人形の家』というタイトルは、終盤でノラが自分をただ可愛がられるだけのお人形にたとえる台詞と呼応する。ノラは人形ではなく、ひとりの人間になりたいと思い、自分を対等に扱わない夫トルヴァルのもとを去る。この作品の最後のト書きは、ドアの閉まる音とともにノラが家を飛び出していったことを示すものだ。
『人形の家』岩波文庫、新潮文庫
 このドアから出て行くという大胆な行動により、ノラは世界文学に名を残すヒロインになった。現在なら離婚はありふれているが、19世紀末の北欧の既婚女性にとって、夫を捨てて自立するという選択は、それまでの生活を全て捨て、悪評のうちに生きる道を選ぶことだった。この決断を成し遂げたノラは、演劇史上のスーパーヒロインとして記憶されることになる。さまざまな大女優がノラを演じたがった。今でも『人形の家』はよく再演される作品だ。
 ドアを閉めて出て行ったノラにはその後、何が起こったのだろう…というのは、このお芝居を見た人の多くが想像することだ。19世紀末の北欧で夫を捨てた女性はそんなに就業の機会に恵まれていたわけではなく、夫のもとに戻るか、誰かの愛人になるか、環境の悪いところで働く娼婦になるかといったあたりが現実的なのでは…と想像する人もいる。しかしながら、ほとんどの観客はノラが自立の精神を捨てて再び男性に頼るようになったり、たとえ誇りは保てたとしても貧窮のうちに死んだりすることは望んでいない。いったいノラには何が起こるのだろうか?
2019年9月には音楽劇化された『人形の家』も上演される
■ノラたちのその後
 ノラはあの後どうなったんだろう、というファンの想像に応える形で書かれたのが、ルーカス・ナスの『人形の家 Part2』だ。このお芝居は、あのドアから15年ぶりにノラがトルヴァルの家に帰ってくるところから始まる。迎えるのは前作にも出てきた乳母のアンネ・マリーだ。いったいノラは今までどんな暮らしをしていて、なぜ戻ってきたのだろう?
 まずほっとするのは、ノラは健康そうで、まともな収入もあるということだ。家出した後のノラの自活の経緯は、イプセンの別の代表作である『ヘッダ・ガーブレル』に出てくるヘッダの友人テアや、トルストイのアンナ・カレーニナ、アン・ブロンテの『ワイルドフェル・ホールの住人』のヒロインであるヘレンなど、19世紀文学における夫を捨てた女たちの努力と苦労を彷彿とさせる。一方で、実在するフェミニストや女性作家たちからもヒントを得ていると考えられ、このくらいの成功なら頑張れば可能だったのではないか…と思わせるリアルさがある。ノラは努力の末にフェミニストの作家となってけっこううまくやっていたが、その中で再び、女性であるがゆえに自由を奪われそうになる。その障壁を取り除くため、ノラは一度、家に帰ってこなければならなくなったのだ。
ルーカス・ナス『人形の家 Part2』のオリジナル戯曲本
 ノラが直面する障壁は、離婚をめぐる法的問題だ。ヨーロッパには歴史的に離婚が非常に難しかった国がいくつもあり、アイルランド共和国などは1995年までほぼ不可能に近く、ごく最近、2019年5月の国民投票でやっと離婚の条件が他のEU諸国なみに緩和されることになった。19世紀のノルウェーでも離婚は難しく、とくに女性から離婚を申し立てるのが困難で、『人形の家 Part2』の舞台となったと考えられる19世紀末には離婚法改正の機運が高まっていた。ノラが15年ぶりに戻ってくるのには、こうした歴史的な背景がある。
 離婚が比較的容易な現代日本では、ノラの苦労はあまり身近に感じられないという人もいるかもしれない。そもそもイプセンの『人形の家』じたい、日本ではしばしば、女性の自由という既に終わった問題を扱っている、と見なされてきた。新潮文庫に入っている日本語訳の解説では、訳者の矢崎源九郎が「婦人解放論のごときは今日からみればもはや陳腐の問題」(p. 151)と言っているし、岩波文庫の解説でも訳者の原千代海が「この作品が古めかしい「女権」問題の社会劇とされたのは時代のせい」(p. 184)だと言っている。しかしながら、女権の問題はもう古い…というこうした認識は、もちろん間違っている。今でも女性差別はいたるところにある。日本の離婚法において、女性には再婚禁止期間があるが男性には存在しない。女性が離婚してから300日以内に生まれた子供は前夫の子とするという規定や、夫婦同姓を強制する法律のせいで不利益を被っている親子、夫婦はたくさんいるし、同性婚も認められていないなど、婚姻にかかわる差別や不利益は日本でも現役なのだ。ノラが抱えているのは、古いようで新しい問題だ。
ブロードウェイ上演時のPLAYBILL
 『人形の家 Part2』でさらに面白いのは、前作では小さめの役どころだったアンネ・マリーの役が大きくなっていることだ。ノラが出て行った後にトルヴァルの家にとどまって子供を育てたアンネ・マリーの考えや暮らしぶりがわかるようになっており、ミドルクラスのヒロインの劇的な決断に焦点があたっていた原作よりも、いろいろな女性の声が聞こえるバランスのとれた構成になっている。ノラの娘であるエミーも若い女性になって登場するし、トルヴァルとノラの対話場面もある。
 『人形の家 Part2』は、前作を見たり、読んだりしたことがある人ならば誰でも考えてしまうような問いに対して、ひとつの答えが提供されている。もちろん、作者であるナスの答えに同意しなくてもいい。ひとりひとりがノラたちのその後の生涯を自由に構想していいのだ。
 一方で、「前作でノラが社会的圧力に抗って家出した」ということさえわかっていれば、『人形の家』を見たことがない人であっても『人形の家Part II』を楽しめるだろう。ノラが抱えている問題は、実は現代日本に生きる我々が抱えている問題にけっこう近いからだ。さらに、歴代の大女優が演じてきた演劇史上最もかっこいいヒロインに永作博美が挑戦するというだけでワクワクする。『人形の家 Part2』を見た後は、原作戯曲が読んでみたくなるに違いない。
『人形の家 Part2』に出演する永作博美、山崎 一、那須 凜、梅沢昌代
文=北村紗衣

【参考文献】
●ヘンリク・イプセン『人形の家』矢崎源九郎訳、新潮文庫、1989。
●ヘンリク・イプセン『人形の家』原千代海訳、岩波文庫、2002。
●北村紗衣「モテるお嬢様じゃないとヒロインになれないのか!と憤慨していた高校生の私~イプセン『人形の家』と『ヘッダ・ガーブレル』」、wezzy、2019年3月10日。https://wezz-y.com/archives/63977
●Hanne Marie Johansen, ‘The History of Divorce Politics in Norway’ , Scandinavian Journal of History 43:1 (2018), 40–63.

【北村 紗衣(きたむら さえ)プロフィール】
1983年、北海道士別市生まれ。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評、舞台芸術史。東京大学の表象文化論にて学士号・修士号を取得後、2013年にキングズ・カレッジ・ロンドンにて博士号取得。2014年に武蔵大学専任講師、2017年より武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。2015年より、大学の授業でウィキペディア記事を執筆する英日翻訳ウィキペディアン養成プロジェクトクラスを実施。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち――近世の観劇と読書』(白水社、2018/第10回表象文化論学会賞受賞)、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か ― 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門 ―』(書肆侃侃房、2019)など。訳書にキャトリン・モラン『女になる方法 ― ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記 ―』(青土社、2018年)など。

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