挫折と栄光、そして新しい世界へ。元
NHK交響楽団 首席クラリネット奏
者 横川晴児氏の半生をたどる

18歳でフランスに留学。パリ国立高等音楽院を卒業し、帰国後は東京フィルハーモニー交響楽団NHK交響楽団で長年首席奏者を務めてきたクラリネット奏者の横川 晴児氏。演奏からにじみ出る温かさと、常に新しいことに取り組み続ける姿勢は一体どこからくるのか、お話を伺ってきました。
横川 晴児(よこかわ せいじ)略歴
1968年に渡仏、J.ランスロ、U.ドゥレクリューズ他に師事。ルーアン音楽院、パリ国立高等音楽院をともにプルミエ・プリを得て卒業後フランス国内で演奏活動を行う。 帰国後東京フィルハーモニー交響楽団を経て、1986年NHK交響楽団首席奏者に就任。ソリストとしても、N響定期公演はじめ国内外のオーケストラとたびたび共演。室内楽でも数々の音楽祭・演奏会で著名なソリストたちと共演している。2002年からは軽井沢国際音楽祭で音楽監督。ジュネーブ国際コンクールをはじめ世界の主要な国際コンクールで審査員を務める。また国内外でマスタークラスを行うなど後進の指導にあたるほか、近年は指揮者としても活動。2009年NHK交響楽団より「有馬賞」を受賞。2010年2月同団を定年により退職。元国立音楽大学客員教授、トート音楽院院長、習志野シンフォニエッタ千葉芸術監督、ビュッフェ・クランポン社及びダダリオ社専属テスター。
白紙のまま飛び込んだフランス留学
−長年NHK交響楽団の顔としてご活躍された横川先生ですが、どんな学生時代を過ごされていたのかぜひ伺いたいです。日本の音大に行かずにフランスに留学された、その経緯を教えてください。
「プロのクラリネット奏者を志したころ、当然音大進学も視野に入れていましたが、当時の先生が『音楽家になんかなるもんじゃないよ。君がプロになるなら教えたくない』とおっしゃって。それでも僕は先生に教えてもらいたくて『じゃあ日本の音大には行かないから教えてください』って食い下がったんです。そして、音大に行かずにプロになる方法はあるかなと考えて、留学しようと決めました」
−音楽家になることを反対されたのに、留学は認められたのですか?
「留学したいとお話したら『じゃ、僕が教えて色をつけてしまわず、君を白紙のままで送り出したい』と言われました。だからいつも先生のお宅でマージャン教えてもらったり、遊んでもらったという感じで(笑)。スケール(音階)ぐらいはやったかもしれませんが、音楽よりもその先生と一緒にいるのが楽しくて会いに行っていたという感じです」
−留学は、なぜフランスに行こうと思われたのでしょう。
「当時、池袋の楽器店で音源の試聴ができて、何枚もレコードを聴いていました。そのときに、一番すっと入ってきたのがジャック・ランスロの来日記念版レコードで。これだ! と思ってそのレコードを買って、親に『この先生につきたい』と言いました。そのランスロ先生が教えていたのが、ルーアン音楽院というフランスの学校だったんです」
ジャック・ランスロ(Jacques Lancelot
フランスのクラリネット奏者(1920-2009)。1941年からコンセール・ラムルーの首席奏者を務め、ギャルド・レピュプリケーヌ吹奏楽団の首席奏者も務めた。また、カーン音楽院やルーアン音楽院、ニース国際アカデミーで後進の指導にあたった。
−ランスロ先生の最初のレッスンは覚えていらっしゃいますか?
「最初に勉強したのは『ジャック・ランスロの15のエチュード』です。♪ミソミソミドミド~っていう。なにせ白紙でフランスに行ったので(笑)、あんなエチュードも全然吹けなくて。ソルフェージュもできなかったので、最初の頃は楽器を持って学校に行くというよりも、小さい子供たちと一緒にソルフェージュのレッスンを受けていました。
ランスロ先生がすばらしいのは、教えるというよりも30~40分のレッスン時間の大半を先生が吹いてくださるんです。僕も最初ちょっと吹くんですけど、もういいって言われて、先生がさらい始める。それを横で聴いて練習のしかたから覚えるっていうのを、毎週やっていました。あの頃は今みたいにYouTubeみたいなものはなかったので、先生がさらっているのを聴くのが、唯一の情報源でした」
出典:Amazon.co.jp
−ルーアンにはどれくらいいたのですか?
「当時のルーアンの音楽院はそれほどレベルが高いわけではなくて、一年間勉強して、年度末の試験を受けて、そこでそこそこ上手だったら、はい卒業って(笑)」
−そんなにすぐ卒業できたんですか!
「あの頃はすごくさらっていましたからね。後日談ですが、当時住んでいたアパートのおばちゃんからFacebookで友達申請が来て、『あなた、うちに住んでいた、毎日9時間さらっていた子?」って。『あんなにさらう人は見たことない』って言われました。
あの頃、まだランスロ先生について1年しか経っていなかったのですが、先生が『君のカバンは私の荷物でいっぱいになったから、どこかよそに行きなさい。パリのコンセルヴァトワールにトライしてみたらどうだ』と言ってくれて。毎年1人か2人しか入れないような学校で、その当時だって60倍か70倍の倍率。どういうわけかそこに受かってしまったんです」
劣等感を乗り越えた、原点の地
−当時から頭角を表していたんですね。
「とんでもない。たまたま受かったのはいいけれど、僕はクラスの中でもっとも劣等生でした。当時クラリネット科はドゥレクリューズ先生の1クラスのみで、生徒は11人。レッスンは2回ある週と1回の週があって、月に計6回でした。
パリのコンセルヴァトワールのなかでも最も厳しいと言われる軍隊式のクラスで、本当に厳しい先生でした。エチュードを週に10曲さらいながら、コンチェルトを2週間でさらわないといけなくて。コンチェルトは1週目に吹いて見てもらい、2週目には暗譜してピアニストと合わせるという感じでした。電車に乗ってる間も楽譜を出して指だけでさらったり、地下鉄の中でさえ膝の上に楽譜を置き、手すり棒でさらうようなことをして、それでも間に合わないくらいでしたから」
ユリス・ドゥレクリューズ(Ulysse Delécluse)
フランスのクラリネット奏者(1907-1995)。ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団に首席クラリネット奏者として在籍、1948年に楽団を退団して母校パリ国立高等音楽院の教授となり、1978年まで在任した。
−今の横川先生からは、劣等生の姿なんて想像できません。
「入った段階で、僕以外の生徒は全てのスケールや分散和音など、全部完ぺきに吹いていましたからね。ミシェル・アリニョン(Michel Arrignon)は僕が入学したときの大学院生で、クロード・フォーコンプレ(Claude Faucomprez)は同級生でした。みんなすごいテクニックをもっていましたし、ソルフェージュ能力が高いから、エチュードはできないところだけをさらってきて、あとはほとんど初見のようにして吹くんですよ。本当に機械のようでしたね。僕はとにかくみんなのようにはできませんでした。
先生はレッスン中、いつも爪を磨きながら生徒の演奏を聴いているんですが、僕みたいにできないのがいるとツカツカツカって歩いてきて、譜面台から楽譜を取って、バーンって地面に叩きつけるんですよ(笑)」
−ランスロ先生とは正反対ですね。
「そう、温かかったランスロ先生とは正反対の先生で。レッスンに行くのがいやで、学校も楽器もやめてしまいたかった。死んじゃおうと思ったことも何度もあります」
−それでも最後にはプルミエ・プリで卒業されていますよね。
「パリの国立高等音楽院は2年目から卒業試験を受けられるんですが、3年目でプルミエ・プリをとって卒業しました。そうしたら、今まで『日本に帰れ、ルーアンに帰れ』とか言っていた、めちゃくちゃ厳しくておっかない先生が『おめでとう。今日から君と僕は先生と生徒じゃなくて友だちだから。演奏家同士だから』と言ってくれて。本当に、涙が出るほど嬉しかったですよね」
−感激ですね…! それにしても、すごく順調に歩んでこられたと思っていたので驚きました。
「いいえ、全然。いやあ大変でしたよ。本当にね、ルーアンのコンセルヴァトワールでもパリのコンセルヴァトワールでも、劣等感の塊でした。ここは自分のいる場所じゃないと思うくらい、みんなうまくて。
世間の人たちから笑われてしまうかもしれませんが、今だに僕が頭の中でライバルだと思っているのは当時の彼らなんです。今でも活躍している人がいっぱいいますが、今頃どんなことをやっているかな、どんな奏法になったかな、どんな音楽観かなとか、いつもそんなふうに意識しています。
彼らもその頃はまだ、僕と同じく駆け出しの音楽家でしたが、それが30年、40年と経って偉くなって、コンクールの審査員として僕を呼んでくれるような付き合いになっていって。そのおかげで、向こうでもいっぱい仕事できました。若い頃のそういうライバルや友だちはすごく大事だと思います」
留学当時の思い出の写真
憧れの舞台で重圧と戦う
−その後、日本に帰ってしばらくして東京フィルハーモニー交響楽団に入られたんですよね。東フィルはどんなオケでしたか?
「いまだにあそこに帰りたいと思うくらい、温かくて、すてきな仲間がいて、よいオケでした。フランスに留学していたとき以上に勉強できたなと思うくらい、いろんな経験ができましたよ。本当に楽しかったですし。何よりも東フィルにいて一番よかったのは、オペラをたくさん経験できたことです。フランスにいた頃はオペラはあまり好きじゃなかったのですが、あの歌心というか、オペラ歌手から学ぶことがたくさんありましたね」
−そこからNHK交響楽団に移籍されたのには、何かきっかけがあったのでしょうか?
「その当時、東フィルは月に1回しか定期演奏会がなくて、メンバーの入れ替わりもあるため、シンフォニーを演奏できるのが2ヶ月に一度ぐらいだったんです。なのでそれ以外は、オペラやバレエとかポップスの伴奏とかテレビの番組とか、そういう仕事でした。次第に、純粋にクラシックだけやりたいという気持ちが強くなって。そんな頃に、N響を受けてみないかって言われたんです。
でも当時は厳しくて、東フィルにいながらにして他のオケのオーディションを受けることはできなかったので、退団しないといけませんでした。もしN響を受けてダメだったらすべてを失うけれど、若かったしトライしようと思って。博打ですね、人生は(笑)」
−そして1986年、N響に入られたのですね。
「そうです、めでたく子供の頃から憧れていたN響に入って。それまでも、何回かエキストラには行っていたのですが。
N響での初めての練習に行ったときは、地下鉄の泉岳寺駅に着いて坂を登って、N響の練習場の階段を上っていって、第一練習室というところに入ると、そこに昔から憧れた自分のクラリネット首席の座がパーンと空いていて。もうそれはそれは、座った途端に緊張してどうにもなりませんでした(笑)」
−憧れの席で嬉しいという気持ちはありませんでしたか?
「いやいや、もうどうしたらよいのかわからないくらい緊張しましたね。
最初の仕事が、東フィル時代に何百回も吹いた第九(ベートーヴェン:交響曲第9番)だったんですよ。譜面だってよく知っているし、指揮もすでに何度も共演していて、かわいがってくれていた外山雄三先生。慣れた指揮者と曲だったのに、もうリードミス*の連発で。どうしたのこいつっていうくらい、どうにもなりませんでしたね。震えるし、口も緊張して、本番で大事な3楽章のソロでリードミスを出すし。なんでこんなやつ入れたんだって、周りから冷たい白い目で見られて。あ、もうN響終わったって思いました」
リードミス:「ピー」「キャッ」など意図していない音を鳴らしてしまうこと
−それは……想像するだけで震えます。
「本番が終わるとすぐに、事務局の人が控え室に飛んできて、指揮者の外山先生が呼んでいらっしゃいますって。これはきっと怒られるのかと思って行くと、『表に出ると大変な目にあうから、しばらくこの部屋(指揮者室)にいろ』って言ってくださって。実際、外ではもうみんなが怒っていて、なんであんなやつ入れたんだって大騒ぎでしたから」
−守ってくださったんですね。
「そう。そして、その日の演奏会が終わったあとに浜中浩一さん(1969年から24年間、N響首席奏者をつとめたクラリネット奏者)のご自宅に行って『実は今日こんな本番をやっちゃいました、すみません、辞表を出しますから』って言ったんです。そうしたら浜中さんがニコニコして『そうか、よかったよ! これでまた俺の株があがるな!』って言ってくれたんですよ。もう忘れもしない(笑)。でもそう言って、温かくしていただいたおかげでなんとか続けることができました。
そのときのコンサートマスターだった徳永二男さんは『いや実は僕も、N響のコンマスになった最初の演奏会で、第一関節が震えて揺れちゃってボロボロになった経験がある』ってみんなに言ってくれて。『想いがあるからこそ、そうなるんだ。そういう奴こそ大事にしなきゃいけない』って説得してくださった。すごいでしょう(笑)」
−はい、その言葉には救われます。
「でも、確かにそうなんですよ。人間って、よいものを作りたいという想いがあればあるほど緊張するし、そういう人間こそ大事にしなきゃって、僕も今は思うし。いただいた温かさは、本当に今でも感謝しています。でも周りに認めてもらえるまでは、3年以上かかりましたよ」
−その3年間は、どんな時間でしたか。
「もうね、針のむしろでした(笑)。後々、みんなと気持ちが通じるようになってからは、ソロで歌心を出してルバートしてもこちらに合わせてくれるようになりましたけど、それまでは全然合わせてくれなくて、ただ『遅れてるぞ』って言われるだけ。ノイローゼになりました。僕の悪口を言っているのが、あっちこっちで聞こえてくる気がして」
−それは実際に言われていたのですか?
「実際に耳には入ってこなかったですが、言われていただろうと思います。だんだん顔も見てくれなくなっていきましたから。それで、とにかく世の中のみんなが自分のことを悪く言っていると思いこんでしまって。街を歩いていても目に入ってくる数字は『13』ばかり。13分とか13番とか不吉な数字。それくらいおかしくなっていました。
どうしたらいいかわからないですよね、そういうとき。N響の練習所に着いても、建物の階段を上がれなくなってくる。階段の下で一生懸命自分に『お前が好きで始めたことだよな。自分が入りたくてN響受けて、今までこれだけやってきたんだ。よっしゃ! 今日も明るく行こう!』って言い聞かせて、階段を上っていましたよ」
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