【コラム】映画『ボヘミアン・ラプソ
ディ』、虚構の世界の“真実”

映画『ボヘミアン・ラプソディ』にまつわる一番古い記憶は、クイーンを聞き漁ることに生きる意味を見出していた高校生の頃、BARKSの記事を掘り返しまくっていたときのものだ。

そのときの印象といえば、ただひとつ。「この映画永遠に完成しないだろうなあ」である。映画の計画が発足した2006年なんて、私がまだ小学校4年生の時だ。音楽より木登りが好きだった小学生が、音大受験のためにセンター模試を受けるまでの間、『ボヘミアン・ラプソディ』はすったもんだしていた。そうなれば当然、「永遠に完成しないだろうな」という感想も出てくる。

ちなみにこの2006年という年はラミ・マレックの映画初出演作『ナイト ミュージアム』(第1作)の公開年。当時つけられた映画へのレビューには、「ラミ・マレックの演技が下手」と書かれているものがあったそうだ。時の流れって感慨深い。

さて。映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、優秀なジュークボックス・ミュージカル型作品であった。何が凄いって、流れる曲が何から何まで既存曲なのだ。ライブシーンがオリジナル音源であることはもちろん、ラジオから流れるちょっとした曲や、店のBGM、ライブ・エイドの待ち時間にバックで流れるリフまで既存曲。そうなれば、音大生としてはついつい考えてしまう。「これ著作権使用料だけでいくらかかったんだろう?」と。

考えてもみれば大したこだわりである。「I Was Born To Love You」なんて電話の裏でちょっと口ずさまれているだけで、公開当時はファンですら「エンドロールに記載はあるけど、どこに使われてたの?」と言っていた。そんな扱いでも、そこに既存曲を使うとなれば、その裏には必ず、使用申請をする手間があるのだ。

何故、そんなに面倒なことをしたのだろう。考えてもみれば、『ボヘミアン・ラプソディ』は“違和感”のある作品だった。1970年から1985年までのクイーンの姿を2時間で描いた台本には、映画作品として成立させるための脚色や取捨選択、時系列の操作がある。つまり史実のタイムラインと比較すると、随所に食い違いが出て、熱心なファンが首を傾げる場面ものだ。否、首を傾げたのは熱心なファンだけではなかったか。

更に、この映画はドキュメンタリー作品ではないため、見慣れた実在の人物たちを役者たちが演じている“違和感”がある。とはいえ配役や演技は脇役に至るまで実に理想的なもので、ここでいう“違和感”は決して“似ていない”という意味ではない。ブライアン・メイなんて気持ち悪いくらい似てたし。

だからこの作品には、「単なる“映画作品”としては良くとも、“史実を基にした作品”としてはどうなのだ」という批判が出る。たとえばこれが『「クイーン」という小説』をもとにして作られた実写映画であったならば、その原作改変はけっこうなものである。その上、ドラッグやセックスの部分はだいぶマイルドにされているのだ。こうなれば、見ていて「違和感」を感じてしまうのも当然である。

では、そんな「違和感」のある作品が、なぜこうまでヒットし、クイーンのファンにも受け入れられたのか。その正体は「本物の音源」にあるのだと思う。

繰り返すが、『ボヘミアン・ラプソディ』はドキュメンタリー映画ではない。セリフは本人たちがしゃべったそのままのものではなく、脚本家の手によって“作られた”ものだ。撮影だってセットだし、ウェンブリースタジアムの観客にいたっては大半CG。つまるところ、『ボヘミアン・ラプソディ』という作品は、ストーリーの時系列以前に虚構の塊なのである。

その虚構の中で、音楽だけは隅から隅まで全てが本物だ。あのとき、あの場所に流れていたはずの「本物」の音楽は、観客の記憶からフレディ・マーキュリーのありのままの姿を呼び起こし、画面上の俳優の姿の上へ投影させる効果をもつ。これによって「役者」と「本人」の間にある壁は極限まで薄くなり、さらにはそこへ役者の演技力や優れたカメラワークが介入して、境界を打ち壊すのだ。

思い返せば、ラミ・マレックが主演に決まった時、「似ていない」という意見は少なくなかった。はっきり言って、私も「似ていない」と思っていた。しかしクイーンの楽曲が惜しげもなく用いられた予告編が公開されたとき、“映画のフレディ”と“現実のフレディ”が地続きのものになったような、不思議な感覚があったのをよく覚えている。それはきっと本人の歌声に喚起された我々の記憶が、役者の姿へ補正をかけていたのである。あの作品を観るとき、私たちは画面の上に本物のフレディ・マーキュリーを見ているのだ。

とはいえ、ラミ・マレックはアカデミー賞俳優。映画が旧来のファンにも愛され、新規のクイーンファンを大量に獲得するきっかけになったのは、彼の演技があったからこそである。クイーンを知らない観客は、自分の記憶の混ざった画面ではなく、目の前のラミ・マレックそのものを見ている。その純粋な目が説得力を感じたからこそ、映画『ボヘミアン・ラプソディ』は成功したのだ。

曲の使用方法に関しては、感心するほかに無い。どの曲も「この場面にはこの曲しかない」というほど合っているし、どの曲にもストーリー上の必然性がある。場面に合わせるために新たなアレンジを施されている曲があったり、何十年もしまい込まれた蔵出し音源がポンポン使用されているのはすごい。よく見ればこの作品にはモノローグが無いのだが、その役割は楽曲が完璧につとめている。

特に素晴らしいなと思ったのは、「Fat Bottomed Girls」の使い方である。あの曲はタイトルにも表されているとおり、“尻の大きい女が好き”というセックス・ソングだ。しかしそれが流れているとき、劇中のフレディは“尻の大きい女”ではなく“尻の大きい男”(演:アダム・ランバート)に惹かれている。ヘテロセクシャル的な歌を大衆の前で歌いつつ、内心はそうではない。あの場面はライトに流されるようでいて、強い葛藤を表した場面だ。

あと、ベタな演出だけれど、「Now I'm Here」の“Just a new man”のときにラミ・マレックが大写しになるカットが良いよね。

もちろん、ラストにおける“ライブ・エイドの完全再現”は本当に見事だった。何に驚いたって、映画に使用された本物のライブ・エイドでの録音の鮮明さである。IMAXの現代的な映像美や、爆音上映の音量に耐えうる記録音声が残っていないと、この手の「再現」もできない。よくもまあこんなに綺麗な音声が残っていたものである。

予告やチラシでは「ラスト21分」と明記されているこのライブ・エイドの「演技」だが、実は13分くらいしか無いということは、すでに周知の事実だろう。映画は実際のステージより2曲少ない。更に、演奏される曲にも細かいカットが施されている。ただし、ウェンブリーの舞台へ上がるシーンとエンドロールを含めれば21分くらいになるから、「ラスト21分」というのはあながち、というかギリギリ間違いでもない。

この作品にはモノローグが無いので、ライブ・エイドのシーンにも当然、楽曲解説や心情を説明する台詞が挿し込まれる事は無い。そして「完全再現」を謳っている以上、(カットはあるものの)ライブ・エイドでの選曲や曲順は、実際のクイーンのパフォーマンスのままである。

驚くべきはこの「選曲や曲順に変更が無い」所だ。ライブ・エイドでのクイーンの選曲は単純な(しかし計算された)ヒット曲メドレーで、深い意味があるかと言われたら微妙なところだ。しかし映画でのライブ・エイドは違う。全ての曲に深い意味がある。

「Bohemian Rhapsody(バラード部分)」は、映画中盤でレコーディングシーンと評論家からの酷評を丁寧に描写することにより、会場から湧き上がる歓声をより一層感動的なものに仕立て上げる。また、映画ではフレディがライブ・エイドのリハーサル時にエイズへの感染をメンバーへ告白しているため、「人を殺してしまった」「もう行かなくてはいけない」という歌詞も意味深だ。

続く「Radio Ga Ga」では、映画後半で描かれた孤独に苦しむフレディの姿と、75,000人を沸かせるフレディの姿が対比されるように描かれ、胸を熱くさせる。ライブ・エイドの出演について相談するシーンで、はっきりと「僕らは時代遅れの恐竜」という台詞を入れたことも良い。現実のライブ・エイドでも、この選曲は「人気が落ちていたと思われていたクイーンだが、蓋を開けてみれば今でも大人気だった」ということを象徴するものだったが、「時代遅れの恐竜」というひとつのセリフだけで、当時のクイーンの立場を説明し、選曲に説得力をつけている。

3曲目の「Hammer To Fall」は、本来ならば楽しくノリが良い曲ということでセットリストに入れられていたのだろう。しかし前述のように、映画でのフレディはライブ・エイド直前にエイズ感染を告白している。そうなると、力強いパフォーマンスも、曲調の割に示唆的な「声はとどかない」「ただ叫びたいだけ」という歌詞も、ライブ・エイド直前までの描写と合致するような気がしてくるのだ。

最後の「We Are The Champions」は、ライブ・エイドまでを含めた映画を総括する曲として機能している。それまでの100分間を振り返るための、実に重厚な時間だ。このシーンではみな想いをそれぞれに、映画を振り返るもよし、思い出を振り返るもよし。じっくりと思いを噛みしめる時間だ。

そうしてライブ・エイドの熱狂の内、台詞という台詞もなく映画は終わる。エンドロールの1曲目に使用された「Don't Stop Me Now」には「クイーンの伝説は今も終わらない」というメッセージが内包されているような気がする。だから最後の曲は「The Show Must Go On」なのだろう。あの曲があるからこそ、私たちは映画という魔法の世界から現実の世界へ、現実のクイーンのもとへと帰れるのだ。

10月19日(土)には、映画『ボヘミアン・ラプソディ』がWOWOWにて放映される。劇場という空間で集中して作品を味わうのは良いものだが、プライベートな空間でまったりとくつろぎつつ、おしゃべりをしたり、遠くの友達と実況し合ってみたり、踊ったり、思い思いの鑑賞方法ができるテレビ放送には、劇場鑑賞とはまた違った面白さがあることだろう。映画の他にもたくさんの関連番組の放送予定があるので、ぜひチェックしてほしい。

文◎安藤さやか(BARKS編集部)

■WOWOW『「ボヘミアン・ラプソディ」
放送記念!クイーン大特集』

【番組情報】
『ボヘミアン・ラプソディ』
10/19(土)よる8:00[WOWOWシネマ](字幕版)
10/20(日)午後1:00[WOWOWプライム](吹替版)
伝説のロックバンド“クイーン”と、45歳で世を去ったその伝説的ボーカリスト、F・マーキュリーの熱い足跡をたどり、2018年、社会現象級の反響を呼んだ大ヒット作。

『フレディ・マーキュリー:キング・オブ・クイーン』
10/19(土)よる6:45[WOWOWシネマ](字幕版)
10/20(日)午後3:20[WOWOWプライム](字幕版)
映画「ボヘミアン・ラプソディ」の世界的ヒットで再注目を集めた、伝説のロックバンド“クイーン”のボーカリスト、F・マーキュリーの生前を振り返ったドキュメンタリー。

『クイーン Music Video Collection』
10/20(日)午前8:15[WOWOWプライム]
クイーンの輝かしい軌跡をミュージック・ビデオで一挙放送。3時間半以上、50本以上の珠玉の映像の数々をお届けする。

『洋楽主義~QUEEN Special~』
10/20(日)午後0:00[WOWOWプライム]
イギリスの伝説的ロックバンドQUEEN。映画『ボヘミアン・ラプソディ』も大ヒットを記録し社会現象を巻き起こした。再評価の熱が高まっているQUEENを特集。

『クイーン オデオン座の夜 ~ハマースミス 1975』
10/20(日)午後4:30[WOWOWプライム]
「ボヘミアン・ラプソディ」9週連続1位のさなかに行なわれたUKツアーの最終日のライブ。壮大な名盤『オペラ座の夜』でUKチャートを初めて制圧、黄金時代の幕が開く。

『クイーン ライブ・アット・ウェンブリー・スタジアム 1986』
10/20(日)午後5:40[WOWOWプライム]
最高のライブ・バンド、クイーンのすべてがここにある。魂を焦がすフレディ・マーキュリー、ロンドン最後の雄姿、オリジナル・メンバーでのラストツアー。

『フレディ・マーキュリー アントールド・ストーリー』
10/20(日)よる7:00[WOWOWプライム]
映画『ボヘミアン・ラプソディ』で社会現象を巻き起こしたフレディ・マーキュリー。メンバー、肉親、友人、恋人など映画でも登場した人物たちが、彼の魅力をひもとく。

『クイーン ~デイズ・オブ・アワー・ライブス 輝ける栄光の日々-PART1』
10/20(日)よる8:00[WOWOWプライム]
『クイーン ~デイズ・オブ・アワー・ライブス 輝ける栄光の日々-PART2』
10/20(日)よる9:00[WOWOWプライム]
クイーン結成40周年を記念して制作されたドキュメンタリー。ブライアン・メイ、ロジャー・テイラーの全面協力のもと、貴重な映像でクイーンの真の姿が浮き彫りとなる。

【特集サイト】
https://www.wowow.co.jp/special/015319

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