【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#149
ギタリスト・矢島賢の言葉

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

僕はいつも自分がー番いいと思う音を出
していました

『ギター・マガジン』(2013年11月号)より

『ギター・マガジン』(2013年11月号)に掲載された、矢島賢のインタビュー記事。昭和歌謡全盛期といえる1970年代の初頭から、ギタリストとして日本における大衆音楽の発展に大きく貢献した矢島という人物を、歌謡ファンにはぜひ知っていてもらいたい。そういった意味で、今回の記事がインタビューを読んでもらうための誘導となればいいと思う。矢島の祖父は、琵琶法師だったと明かされている。「音楽を受け取るのが感情なんですよね。だから感情的なギターをスタジオでも弾いていましたよ。ちょっと譜面に合わせないみたいなね」と、そのDNAに刻み込まれた音楽魂を語った。当時、制約が多かったと言われる歌謡界の中で、「自分の音を出すっていう考え方はありました?」という質問に対する答えが今回の名言である。だからこそ、矢島ならではの音色を、多くのアーティスト達が求めたのだ。

矢島賢 (やじまけん)
1950年3月18日生まれ、群馬県前橋市出身。ギタリスト、編曲家。1969年、横田や厚木など、在日米軍基地の将校クラブ『ティーンズクラブ』を中心に音楽活動を開始する。1971年より、南沙織天地真理などのレコーディングにスタジオミュージシャンとして参加。1972年、井上陽水のアルバム『陽水IIセンチメンタル』で、初めてギタリストとしてクレジットされる。その後は、郷ひろみのデビュー曲「男の子女の子」、桜田淳子のデビュー「天使も夢みる」、山口百恵の「プレイバックPart2」、中森明菜の「少女A」、近藤真彦「ハイティーン・ブギ」など、フォークからロック、歌謡、演歌まで、様々なジャンルのヒット曲にギタリスト、あるいは編曲家として参加している。超人気バラエティー番組『8時だョ!全員集合』で演奏を14年間担当したビッグバンド・岡本章生とゲイスターズのギタリストとしてサポートメンバーも務めた。他にも、沢田研二吉田拓郎長渕剛、CHAGE and ASKAなどの数多くのアーティストのツアーやレコーディングに参加している。日本の歌謡界を支えた最重要人物のひとり。2015年4月29日に死去。享年65。
仲村 瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。

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