「ザ・ブロードウェイ・ストーリー」
VOL.2 レヴューの帝王とオペレッタ

ザ・ブロードウェイ・ストーリー The Broadway Story

☆VOL.2 レヴューの帝王とオペレッタ
文=中島薫(音楽評論家) text by Kaoru Nakajima

■興行師ジーグフェルド
 宝塚歌劇団にOSK日本歌劇団。日本でレヴューと言えば、これら歌劇団が上演する、大階段にラインダンス、煌びやかな衣装が眩い、ソング&ダンスの饗宴を思い浮かべる方が多いだろう。ブロードウェイでは、VOL.1で紹介したヴォードヴィルに続いて、観客を魅了したのがレヴューだった。構成はヴォードヴィル同様に、歌手やダンサー、芸人たちのパフォーマンスに加え、世相風刺の寸劇を次々に紹介する趣向。そして何と言っても一番の売り物は、美女が大挙登場する華やかなレヴュー・ナンバーだ。
ジーグフェルドの伝記映画「巨星ジーグフェルド」(1936年)、アメリカ公開時のポスター
 この分野におけるブロードウェイの第一人者が、「レヴューの帝王」ことフローレンツ・ジーグフェルド(1867~1932年)。プロデューサーと言うより、「興行師」の呼び名が相応しい傑物で、この職業に必要不可欠なハッタリとゴリ押しに長けていた。子供の頃、空の金魚鉢に水を入れ、「よく見ると透明の金魚が泳いでいる」とホラを吹き、友人を集めては観覧料をせしめていたというから筋金入りだ。
 以降、見世物小屋やヴォードヴィルの巡業で興行のノウハウを学び、ブロードウェイでレヴューを手掛ける。皮切りとなった作品が、1907年6月開幕の『1907年のフォーリーズ』。当時の劇場は冷房設備がなかったため、猛暑の夏期は休業。ビルの屋上に設営された仮設劇場で、涼しくなる夕刻から上演された。その後、現在は『アラジン』(2014年)などディズニー作品でおなじみの、ニュー・アムステルダム劇場に移動(ここは古い劇場で、1903年開場)。自らの名と年号を冠した、『○年のジーグフェルド・フォーリーズ』のタイトルで、1931年までほぼ毎年上演を重ねた。
『1912年のジーグフェルド・フォーリーズ』のポスター

■看板スターのコメディエンヌ
 厳しい鑑識眼の持ち主だったジーグフェルドが選りすぐった美女ダンサーは、「ジーグフェルド・ガールズ」と呼ばれ、絢爛豪華なレヴューを艶やかに彩った。当時の実写映像は多くは残されていないが、幸い1936年に、彼の伝記映画「巨星ジーグフェルド」が製作され、華美なレヴュー・ナンバーが再現された。特に圧巻なのが、〈愛らしき娘は、まるでメロディーのよう〉。重量100トンの巨大なウェディング・ケーキ状のセットがゆっくり回転すると、175段の階段にひしめき合うは、総勢200名近いキャスト。あまりの規模のデカさに、唖然を通り越して笑ってしまうほどだが、実際の舞台を数十倍スケール・アップしたこのシークエンスは、ハリウッド史に残る名場面となった。コントラストの効いたモノクロ映像も、美しい事この上なし。
「巨星ジーグフェルド」より、〈愛らしき娘は、まるでメロディーのよう〉の場面(DVDは、ワーナー・ホーム・ビデオからリリース)
 また、数多くのパフォーマーを世に送り出したジーグフェルド。代表格の一人が、やや大仰なコメディー演技で鳴らした喜劇女優&歌手のファニー・ブライス(1891~1951年)だろう。歌手としては、トーチ・ソング(叶わぬ恋や片想いを歌うバラード)を得意とし、『ジーグフェルド・フォーリーズ』の看板スターとなった(前述の「巨星~」にも本人役で出演)。ブライスの半生は、後にブロードウェイでミュージカル化。それが、バーブラ・ストライザンド(1942年~)を、一躍スターの座に押し上げた『ファニー・ガール』(1964年)だった。バーブラは、1968年の映画化版でも主演。この映画でも、贅沢なレヴュー場面を存分に楽しめる。
ファニー・ブライス。アクの強い芸風で売った。
バーブラ・ストライザンド。なるほど良く似ている(「ファニー・ガール」DVDとブルーレイは、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントよりリリース)。

■アメリカ産オペレッタ
 レヴューで使われる楽曲にも、こだわりを見せたジーグフェルド。有能なソングライターを抜擢し、新曲を依頼した。後に〈ホワイト・クリスマス〉を始め無数の名曲を放ち、アメリカを代表する国民的作詞作曲家となった、アーヴィング・バーリン(1888~1989年)もその一人。先に述べた〈愛らしき娘は~〉は、彼が『1919年のジーグフェルド・フォーリーズ』のために書き下ろしたナンバーで、ジーグフェルド・レヴューのテーマ曲となった。
アーヴィング・バーリン作詞作曲〈愛らしき娘は、まるでメロディーのよう〉の譜面
 レヴューと並び、ブロードウェイ草創期の礎を築いたのがオペレッタ。港町ニューヨークが、1800年代に欧州からの芸能文化を輸入していた事は、VOL.1で記した通りだ。実際1868年には、ジャック・オッフェンバック作曲の名作オペレッタ『美しきエレーヌ』と『青ひげ』が初演されている。ただしこれは、原語(フランス語)による上演。ヨーロッパからの移民のための公演だった。一方、風刺の効いた英国産オペレッタ(コミック・オペラと呼ばれた)の脚本・作詞作曲で知られる、ギルバート&サリヴァンのコンビによる代表作『ペンザンスの海賊』や『ミカド』も、1800年代後半にニューヨークで上演されている。
 その後1900年代になって登場したのが、ブロードウェイ発のオリジナル・オペレッタ。中核となったのが、ヨーロッパからアメリカに渡った3人の作曲家だ。それが、『お転婆マリエッタ』(1910年)のヴィクター・ハーバート(1859~1924年)、『放浪の王者』(1925年)のルドルフ・フリムル(1879~1972年)、そして『ニュー・ムーン』(1928年)のシグマンド・ロンバーグ(1887~1951年)。現在は、アメリカでさえ忘れ去られた作曲家だが、スタンダードとなって親しまれている歌曲を数多く生み出した。

■今なお歌い継がれる名曲
 彼らのオペレッタが大衆に愛されたのは、時代背景が大きく影響している。新天地で一旗揚げるべく渡米したヨーロッパ移民たちは、浮世離れした筋立てと甘美な調べに、日々の苦労を忘れたのだ。事実、『お転婆マリエッタ』と『ニュー・ムーン』は、身分を隠した貴族が主役。15世紀のパリが舞台の『放浪の王者』は、貧しくも愛国の血に燃える放浪詩人と王妃のロマンスと、感傷的な物語が好評を博した。楽曲では、『放浪~』の〈ヴァガボンドの唄〉は、後に松竹映画「親父とその子」(1929年)の主題歌用に、「♪虹の都 光の港 キネマの天地」と日本語詞が付けられ、〈蒲田行進曲〉のタイトルで親しまれた。また、『ニュー・ムーン』の〈朝日の如くさわやかに〉と〈恋人よ我に帰れ〉は、今なお多くのジャズ歌手やミュージシャンがレパートリーに加えている。
『ニュー・ムーン』が、2003年にニューヨークのシティ・センターで上演された際のレコーディング(輸入盤CD)。歌唱大充実の好盤だ。
 ただ残念なのは、これらオペレッタはハリウッドで映画化され、後にDVDで発売されたものの、現在日本で入手できるのは、1935年に映画化された『お転婆~』のみ(邦題の「浮かれ姫君」が秀逸だ)。主演は、名コンビを謳われたネルソン・エディとジャネット・マクドナルド。クラシカルな発声で朗々と美声を響かせ、アメリカでは大変な人気だった。
「浮かれ姫君」(1935年)のアメリカ公開時ポスター(DVDはジュネス企画からリリース)
 意に沿わぬ婚約者から逃れるため、侍女に成りすました王女の冒険譚は少々ダレるが、マクドナルドの美しさに息を呑む。劇中歌の〈ああ!人生の甘き神秘よ〉と〈誰かと恋している〉は、サットン・フォスター主演の『モダン・ミリー』(2002年)で、パロディー的に使われ効果を上げていた。ミリーの友人に一目惚れした会社社長が、突如「あああ~!」とオペラ調で歌い上げ、爆笑を誘ったのがこの曲だ。
ジャネット・マクドナルド(1903~65年)。代表作は他に、「メリィ・ウィドウ」(1934年)や「桑港」(1936年)など。
 VOL.3では、オペレッタの衰退に替わり登場した、ブロードウェイ・ミュージカルの開祖となった記念碑的名作『ショウ・ボート』(1927年)を紹介しよう(この舞台のプロデュースもジーグフェルドだった)。
文=中島薫

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