『劇場版BEM〜BECOME HUMAN〜』 人
間とは何かをめぐる終わりなき問い

「早く人間になりたい」という鮮烈なセリフで、昭和の名作アニメとなった『妖怪人間ベム』。
1968年に放送されたこの作品は、2018年に50周年を迎え、TVアニメ『BEM』が2019年に放送、そしてその続編にあたる映画『劇場版BEM〜BECOME HUMAN〜』が2020年10月2日より公開される。
ホラーテイストが強かったオリジナルから、アニメ「BEM」はキャラクターデザインが一新され、シティ・ポップ的なテイストにノワールの要素を加えたものにアレンジされた。おどろおどろしい恐怖を描いたオリジナルに比べて、スタイリッシュな印象を与えるものとなっている。
しかし、作品の本質は変わらない。異形のものが人間の残酷な側面を照らし出し、人間とは果たして憧れるに足る存在なのか、本当の人間らしさとは何なのかを問う姿勢は健在だ。さらに、「BEM」と今回公開となる劇場版は新たな要素を加え、人間らしさとは何かを見る人に問いかけている。
愚かで醜い心の人間と正義の心を持った妖怪人間
『妖怪人間ベム』の主人公・ベム、ベラ、ベロの3人は、一つの細胞が分裂し、生き物となった異形の怪物である。3人は、人間のために正義を成せばいつか人間になれると固く信じている。
多くのエピソードで描かれたのは、人々を脅かす怪物たちと戦うベム達の姿と、そんなベム達を外見だけを理由に迫害する人間たちの醜さだった。外見は醜いが正義の心を持った妖怪人間と、醜い心を持った人間たちの強烈な対比は多くの視聴者に強烈なインパクトを与えた。
(c)ADK EM/劇場版 BEM 製作委員会
英語の「モンスター(monster)」の語源は、ラテン語の「monstrum」だそうだ。その意味は、「奇怪な出来事や生物の登場は神々の警告である」であるという。異形の存在は、我々に何かを伝えている存在なのだ。妖怪人間たちの存在は、外見ばかりが人間であっても、心が醜くてはいけないということを我々に伝える存在ではなかっただろうか。当時の視聴者は、このアニメを見て、自分は胸を張って立派な人間と言えるだろうかと自問自答しただろう。
2019年に放送されたTVアニメ『BEM』もそんなテーマを踏襲した作品だった。大橋を境に、富裕層が暮らすアッパーサイドと貧困と犯罪がはびこるアウトサイドに分断された街を舞台に、妖怪人間の3人が様々な葛藤を抱えながら、いつか人間になれることを夢見て、正義のために戦う姿が描かれた。
TVアニメ「BEM」では、ベム、ベラ、ベロの3人の外見はより人間に近くなっており、普段は人間に溶け込んで生活している様子が描かれる。ある意味、「人間になりたい」という夢を叶えているように見えるかもしれないが、近づいたからこそ差異も際立ち、人間のネガティブな側面も見えるようになる。
(c)ADK EM/劇場版 BEM 製作委員会
とりわけ、少年の外見のベロはオリジナル作品と比べて、内面の変化が大きく設定されている。1968年のオリジナル版では、最も人間になりたいと強く願う、純粋で無邪気な少年だったが、新シリーズでは人間に対して一番冷めている。「正しい行いをしていれば、いつか人間になれる」と言うベムに対して、ベロは「それってほとんど宗教だよね」と返し、人間になるという希望も、人間に対するあこがれも失っているかのようだ。ベロの周囲には家族に暴力を振るわれている人間の子供たちがいる。将来の希望を見いだせないのは妖怪人間だけではなく、貧困にあえぐ人間の子どもたちも同様なのだ。そんな環境にいては、人間になることが幸せとは限らない。ベロの態度は、格差が拡大し、日本全体が貧しくなり、将来に希望が見いだせない現代の子どもたちの姿が重なって見える。
(c)ADK EM/劇場版 BEM 製作委員会
一方、ベムは人間にまだ希望を抱いている。人間の醜い部分を凝縮したような街において、それでも人間性を失わない刑事、ソニア・サマーズとの交流を経て、人間になることの希望を捨てずに戦い続けるが、彼もまた人間たちの手によって裁かれてしまう。
(c)ADK EM/劇場版 BEM 製作委員会
ベラは、ベムほどに希望を持っていないが、ベロほど世を儚んでいるわけでもない。実在した人間の身体を模した外見で学校に通うベラには同級生の友人もいて、最も社交的な生活を送っているかのように見える。だが、その分正体がばれた時には手ひどい裏切りにあうことにもなる。最も人間と接する機会が多いからこそ、人間との違いを痛感させられるポジションにベラはいる。
そんなベラの唯一の救いとして登場するのが、オタク気質の男子同級生だ。彼だけは、そのベラの本当の姿を美しいとすら言う。異形のベラの姿を美しいと思える感性を持っているこの少年の存在は、多様な価値観が社会にあることが重要だということを示している。
オリジナル作品では、ベムたちが戦う主な相手は人に危害を加える異形の存在たちだったが、新シリーズでは、自らの欲望をかなえるために人の姿を捨てた改造人間たちが敵となって立ちはだかる。そのため、ベムたちは常に「人間のために人間と戦っている自分たちは何なのか」を自問せざるを得ない。人間の醜さや愚かさはオリジナル以上に強調される形となっている。
劇場版で描かれる「自我」の大切さ
『劇場版BEM〜BECOME HUMAN〜』は、TVアニメシリーズから2年後の世界を描いている。舞台を巨大製薬会社ドラコ・ケミカルが支配するドラコ・シティに移し、再び人間の業と妖怪人間たちの戦いを描いている。
(c)ADK EM/劇場版 BEM 製作委員会
劇場版は、「人間とは何か」という問いをさらに広いものにしている。ベムは記憶を失っており、妖怪人間であることを忘れ、普通の人間として生活している。あまつさえ、妻と2人の子どもを持ち、郊外にマイホームを構えている。同僚たちとも上手くやり、近所づきあいもそれなりにある「典型的な人間」として生活している様子が、あけすけにステレオタイプな形で描かれている。
このあからさまなステレオタイプ描写は、作り手の人間観が古いことが理由ではない。メディアで喧伝されるような理想の家庭で、毎日同じルーティンを繰り返し、何も考えずに生きるのは、果たして人間らしいと言えるのかという問いかけが潜んでいる。
絵に描いたような「みんなと同じ生活」に疑問を持たずに、巨大な資本システムの歯車として生きるのは家畜のようなものではないか。そのような人々は「自我」を失っているのではないかと本作は問う。
「自我」は、今回の劇場版の重要なキーワードだ。ベムの新しい生活は、表面上は人間そのもので、ある意味夢が叶っているともいえる。しかし、そこには「自我」がない。表面上だけ人間になっても、心が失われていては人間になる意味がない。だから、ベムは記憶を取り戻し、その偽りの人間生活を破壊する。
(c)ADK EM/劇場版 BEM 製作委員会
「自我」を考える上で、妖怪人間たちの行方を追うソニア・サマーズ刑事の存在も重要だ。彼女は腐敗した警察組織の言いなりには決してならない。なあなあで済ますのをよしとせず、組織内でも常に煙たがられる存在だ。彼女は、人一倍強い我を持っている。彼女は、自分で見て、聞いて、考え、行動を決める。妖怪人間は危険な存在だと皆が決めつける中、人を助ける姿を自分の目で見たソニアは自らの判断を信じて彼らを擁護する。そんな強い自我を持つからこそ、妖怪人間の3人も彼女には心を開くのだ。
「人間は考える葦である」と哲学者パスカルは言った。考えなしに外見の異様さだけで妖怪人間を迫害する輩も、決められたルーティンをこなすだけで考えることをやめてしまった連中も真の意味で人間とは言えない。一人でも組織に反逆するソニアや、自らの内面の正義に従い行動する妖怪人間たちこそ、本当の意味で人間らしい存在なのではないかと本作は力強く教えてくれる。人間になれていないのは、妖怪人間たちだけじゃないのだ。

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