あぶらだこの一口では語れない
音楽性が詰まった“木盤”は
異端派パンクバンドならではの逸品
いい意味で表現に躊躇がない
M9「Paranoia」はタムを多用したどっしりとしたドラミングに、繊細な単音弾きのギターを重ねるという、これも今となってはビジュアル系っぽいスタイル。M2やM6に近いタイプと言えるが、先ほども言ったように、あぶらだこがのちのビジュアル系に直接的な影響を与えたかどうかはまったく定かではないものの、1980年代から現在まで続くある種類の音楽の進化の過程を垣間見るようで、この辺はかなり興味深くはある。ミディアムのM10「翌日」は7分を超える、アルバムのフィナーレに相応しい長尺のナンバー。メロディアスなベースと的確かつシャープに攻めるドラムが楽曲の屋台骨を支えつつ、その上に若干不協気味なギターが鳴っていく。ヴォーカルが入るのが後半5分半頃からで、しかもほぼシャウトという代物で、ポップさは薄いと言わざるを得ないが、アルバム全体を振り返って考えてみれば、自らの表現に対してまったく躊躇していない姿勢の表れと見ることもできるだろう。躊躇していないと言えば、ここまでほとんど触れてこなかった歌詞はまさしくそんな感じだ。気になったものを以下にいくつか抜き出してみる。
《よくもこんな鬼面の中 二本足で/鼻を開き耳を開き口をつぐみ/時間はもう完璧に疲れ果てて/咲くべきのない使者は一人ただ宙を漂う》《一人刺して二人刺して三億で英雄/脆弱の中で一人裸体を捨て去る/幻想の肩書は口ぐそも忘れる/眼鏡の螺旋はもはや緩みかけて《どうしてこんな所で酸素ばかり/仕方ないどうでもいい どうでもいい》(M3「Row Hide」)。
《なぜ生きてるのか解らなくて一人で外に出てみる/もっと自由の偽善の嘘で楽しく暮らしたかった/僕らの未来は全然暗くないと信じてみる/嫌われ者の行く先は聖人を超えて快感/貧困の翼を靡かせて歩く象の群れの声/象の上に乗って君らを皆踏みつぶしてあげたい》(M4「象の背」)。
《今まで許したことなどない/マグマの中から見張ってる/36度は暑すぎる/空き家の子猫が気を落とす》《君の気持は解からない》《三歳児の天才が造った物などどこにもある/逃げて、逃げて、逃げて…………》《異常な期待は羞恥の念/サタンの広い眼、神、農民/己が欲望されている さあ仕事さあ逃げろ 汝を信じれるものが あったと仮定してみて 千里の荒野に踊る 一輪の花に唄う》(M5「生きた午後」)。
《三億で英雄》は多分、昭和43年の三億円強奪事件のことではないかとか、《象の上に乗って君らを皆踏みつぶしてあげたい》や《僕らの未来は全然暗くないと信じてみる》《三歳児の天才が造った物などどこにもある》は、そこに共感できるかどうかはともかく、そういうことを思う人がいることは理解できなくものない…とか、思いを巡らせることはできる(《36度は暑すぎる》は素直に共感する)。だが、それ以外は相当に想像力を働かせないと、いや、働かせたとしても、作者の意図を完全に把握するのは困難だろう。
ちなみにここに掲載しなかった“木盤”収録曲に関しては、筆者如きがどうのこうのとまったく語れるレベルではないと完全に白旗を掲げたと言っておこう。いずれにしても、ここまで述べてきたメロディー、サウンド、演奏も加味して考えると、歌詞もまた、いい意味で聴き手に阿ることなく、自らの表現に真摯であろうとした結果であったと推察できる。冒頭で、あぶらだこが後世に与えた影響うんぬんと言ったが、そのスタイル以前に、こうした姿勢こそが今も現役で活躍するアーティストの何かを刺激したのだろう。それは間違いないと思う。
TEXT:帆苅智之