ダンサーからドラマーへ転向し、Nis
sy、BoA、EXILE TAKAHIRO、ORANGE R
ANGE、Mrs. GREEN APPLE、織田哲郎、
GReeeeN、aiko等のサポートで活躍す
る神田リョウ。異色のキャリアに迫る
【インタビュー連載・匠の人】

“ダンサーとしてのキャリアを経て、高校でジャズビッグ・バンドへの入部をきっかけにドラマーへと転向”という経歴を持つドラマー、神田リョウ。2014年にBoAのツアーに参加したことをきっかけに、Nissy、EXILE TAKAHIROORANGE RANGE織田哲郎GReeeeNaikoJUJUMrs. GREEN APPLEなどのレコーディングやステージをサポート。また、SNSで配信している演奏動画シリーズ“#一日一グルーヴ”、後進育成のために「神田式ゆるふわドラム塾」を主催している彼に、個性的なキャリアを振り返りつつ、ドラマーとしてのスタンスを語ってもらった。
――まずは“ダンサーからドラマーへ”という経歴について聞かせてもらえますか?
僕は一人っ子というのもあって、自分で楽しいことを見つけて、ある程度満足できるまで極めたい性格なんです。小学生のときに最初にハマったのはヨーヨー。90年代後半のハイパーヨーヨー第一世代で、バンダイが定めていた技をすべてクリアしたら“プロスピナー”の称号がもらえるんですけど、それを取ったんです。さらに上のレベルの資格もあって、それを取るとプロとして人前に出られるんですけど、だんだんとブームが落ち着いて、大会自体がなくなってきたんですよ。あと2つ技をクリアしたら最高レベルだったんですが、とりあえずやれるところまでやったという感じがあって。次に何をやろうかなと思ったときに、興味を持ったのはダンスだったんです。小6から地元(兵庫県三田市)のダンススクールに通い始めて、そのまま中学生になって。……実は僕、もともとジャニーズ事務所に所属してたんです。
――アイドルを目指していたんですか?
中学のときに「ダンスの道でプロになるのはどうしたらいいだろう?」と思い始めて。インターネットもない時代だし、情報は少なかったんですけど、「ジャニーズじゃない?」と思って試しに履歴書を送ってみたら、通ったんです。面接やダンス審査を受けて、社長のジャニーさんから「明日からレッスンに来てください」と電話をもらって。すぐにバックダンサーとして活動しはじめたんですよね。KinKi Kidsタッキー&翼TOKIO関ジャニ∞などの後ろで踊らせてもらって。負けず嫌いで極めたい性格だから、ステージで踊るのは楽しかったんですけど、アイドルの世界の厳しさをなんとなく感じて幼心に「この世界はしんどいな」と思ったんですよね。「このままやってきたいか?」と言われると、二つ返事で答えられないなって。ダンスに関してある程度やれたという満足感もあったので、高校受験のタイミングで辞めました。
――そしてドラムを叩き始めた、と。既にすごい人生ですね。
はい(笑)。TOKIOの松岡(昌宏)くんの横で踊ってるときに、「この楽器、カッケーな」と思って、「俺もやってみたいな」と思って。なので「ドラムをはじめたきっかけは松岡くんです」って言ってるんですよ(笑)。最初にドラムを叩いたのは、高校の部活ですね。中学からバンドをやってる友達がいて、「楽器ができたらコミュニケーションの幅が広がりそうだな」と思い、「ドラムが叩ける部活がある」って聞いて、行ってみたらジャズのビッグバンドだったんです。「2拍目、4拍目でハイハットを踏む」みたいなことを教えられて、松岡くんのドラムしか知らなかったから、最初は“自分が思っていたドラムとは違う感”がすごかったですけどね(笑)。ふだん聴いていたロックともだいぶ違いましたけど、これもドラムの表現の一つなんだなと。とにかく上手くなりたくて、部活で練習しはじめたのがキャリアのスタートです。
――生まれながらの「極めたい」という気持ちが、ドラムに対しても出たと。
めちゃくちゃ出ましたね(笑)。最近はキャンプや料理に凝ってるんですけど、興味を持ったことに対して、自分が知らないこと、足りないことがあるのがイヤなんですよ。努力でカバーできることは全部やりたいというか。平たく言うと凝り性なんですね(笑)。
■中学生のときに「人前で好きなことをやって、お金をいただく」ということを経験したのが大きかった
――高校時代の活動はどんな感じでした?
ジャズのビッグバンドは、正直自分がやりたい音楽ではなかったんですよね(笑)。ディズニー音楽やオシャレなカフェ、ドラマのなかで聴いたことがある、という感じで。その頃はJ-ROCKに興味があって、Hi-STANDARDSHAKALABBITSなどが好きで。Dragon AshACIDMANBUMP OF CHICKENとかも聴いていたし、仲間内でコピバンを組んで文化祭に出たりしてました。ドラムって垣根がないんですよ。高校の頃はドラマーが貴重な人材で、「ドラム叩けるんだったら、こっちも手伝ってよ」という感じで、いろんなジャンルの音楽を演奏してましたね。学校外でもバンドを組んでたし、練習もがんばってました。もともとは大学に行こうと思ってたんですけど、「ドラムを続けたい」と思って、地元の甲陽音楽学院に進学しました。親も理解してくれて、「音楽やりたいんだったら専門学校に行け」って言ってくれたんです。
――その時点でプロのドラマーとして活動したいと思っていた?
そうですね。「どうやらこの国では、仕事をしないと生きていけないらしい」というのが出発点なんですが、中学生のときに「人前で好きなことをやって、お金をいただく」ということを経験したのも大きくて。上手くいくかどうかは別にして、好きなことを仕事にしたいと思ったとき、自分が持っていた手札がドラムだったんです。そこからはプロとして活動すること以外は考えてなかったかな。
――専門学校に進んだことも意味があった?
行ってよかったですね。2年のカリキュラムなんですが、知識や技術、情報を効率よく得れたと思うので。専門に行かず、自力でやってたら、めっちゃ時間がかかったでしょうし、今みたいな活動はできてなかったかもしれないなと。でも、じつはここだけの話、卒業してないんですけどね(笑)。
――在学中にプロになったということですか?
いえ、単位が足りなかったんですよ(笑)。学校には真面目にちゃんと行ってたんですけど、講義を受けるよりも、練習したり友達や先生たちと話すほうが楽しくて。何度か甲陽音楽学院のセミナーに呼んでいただいたんですが、「卒業生の神田リョウさん」と紹介されて、「俺、卒業できたんや?」って(笑)。 あ、学生の皆はちゃんと講義受けましょうね‼(笑)。
――(笑)プロとして活動しはじめたきっかけは何だったんですか?
プロの定義が曖昧なので何とも言えないんですが、いちばん最初は社会人ビッグバンドのサポートですね。僕の師匠の多田明日香さんは関西の大御所なんですが、後進育成にも力を入れていて、僕も目をかけてもらってました。いろんな現場に連れていってもらったし、ビッグバンドのサポートとして紹介してくれたんです。何とかやりきって、ギャラをいただいたのが最初の仕事でした。ただ、僕としては関西で活動する意思がなくて、20歳で上京したんですよ。
――当然、仕事のツテなどはないですよね?
ないですね(笑)。あると言えば、在学中に熱帯JAZZ楽団と一緒にステージに立てるという機会に恵まれて、バストロンボーン奏者の西田幹さんとのご縁を頂いたんです。右も左もわからない上京当初から色々とラテンコンサートなどのステージでご一緒させて頂いたり、とてもお世話になりました。あと当時はミクシィが流行っていたので、ドラマー募集のコミュニティをチェックして、いろんな人とセッションしたり。とにかく横のつながりを作ろうと思っていました。メジャーアーティストに関わるようになったのは、2014年のBoAさんのツアーなんですが、そのきっかけもバンマスの守尾崇さんと知り合いだったからなんです。上京して初めて行ったジャムセッションで知り合った同い年のベーシストの森田悠介を通じてクラブで知り合ったDJの方に守尾さんを紹介してもらって仲良くさせてもらったんですけど、「BoAのツアーバンドのオーディションがあるから、よかったら受けてみない?」と声をかけてくれて。一緒に上京して、ルームシェアもしていたベーシストの堀井慶一と一緒にエントリーしたら受かったんですよ。それが上京して5年目くらいかな。決まったときは「マジかよ?」って思いました。
■自分たちの仕事は大工さんみたいなものだと思うんですよ
――BoAさんのような知名度のあるアーティストに関わると、他の仕事にもつながりそうですね。
それはすごくありました。BoAさんのライブプロデューサーの方は、Nissyも担当されていたので、数年後に彼のアリーナツアーやドームツアーにも呼んでもらって。メジャーなアーティストは規模感も大きいぶん、関わる大人の数も多いし、人づてに「BoAのツアーに参加してたドラマーはどう?」と提案してもらえることもあって、いろんな現場に呼んでもらえるようになりました。基本、自分たちの仕事は大工さんみたいなものだと思うんですよ。「家を建てたい」と発注してもらわないと仕事にならないというか。もちろん、いい家を建てる=いい演奏をすることが前提ですけど、何かあったときに思い出してもらえるかどうかが大事なので。
――なるほど。今名前が出たNissyさんをはじめ、EXILE TAKAHIRO、ORANGE RANGE、織田哲郎さんなど、関わってきたアーティストのふり幅がすごいですよね。
ORANGE RANGEのツアーの翌日に美川憲一さんのライブに参加させてもらったこともあります(笑)。確かに幅は広いですけど、それぞれに面白さがあるし、スケジュールが許す限り、全部やりたいんですよね。オファーを頂けたということは、先方のクライアントや誘ってくれたバンドメンバーには何らかのイメージがあると思うんですよ。であれば、自分にやれるはずだと。僕自身も「面白い」と思えば、すぐに「ぜひ!」ってなるタイプ。プライドはありますけど、変なこだわりはなくて。僕が叩くと先方がイメージしているものとは違う形になるかもしれないけど、期待してくれる人がいるんだったら応えたいという思いによって今のスタイルが成り立ってるんじゃないかな。
――仕事の幅が広がることで、プレイスタイルの引き出しも増えるでしょうし。
そうですね。最初の頃はジャズの現場が多くて、ピアニストの桑原あいさんとベーシストの森田悠介とトリオを組んでいたこともありました。ジャズの世界は猛者がひしめき合ってるんです。「こんなにすごい人たちのなかで戦うのか」という思いもありながら、自分としてはもっといろんなジャンルでやりたいという気持ちもありました。あと、東京ドームみたいな大きいところでもやりたかったんですよね。
――ジャズに特化すると、ドームやアリーナで演奏するのは難しいですよね。
お客さんとの距離が近いところで演奏することが多いですからね。クラシックの素養はないんですけど、ポップスやロックといったコンテンポラリー音楽なら対応できると思います。時期によってロックが多かったり、ブラックミュージック系が増えたり、「今はジャズのシーズンだな」ということもあるんですが、最近のJ-POPのアーティストは、「自分はこのサウンド」というこだわりを持たない柔軟な方も多いじゃないですか。一つの現場でいろんなジャンルを求められるし、ミュージシャンも対応力が大事。「あいつはいろいろ叩ける」というのがちょうどいい受け皿になってるのかもしれないです(笑)。
――オールマイティに対応できることが、ドラマーとしての強みになってるんですね。
今はそうですね。以前はかなり迷っていたし、悩みもありましたね。仕事が増えてきていろんなジャンルが叩けるようにはなったけど、そういうタイプってブランディングが難しいんですよ。“何でも屋”って弱いじゃないですか。なので、確固たる信念というか、「自分はこういうタイプのドラマー」という肩書が欲しいと思ってました。ジャンルに特化した専門店の方が強いというか、「自分もそうなりたい」とコンプレックスを感じてた時期もありました。
――なるほど。
ちょうどその時期にタップダンサーと知り合って、セッションする機会があって。ヒューマンビートボクサーの方もいたんですが、そのセッションがすごく楽しかったんですよ。「いろんな人に見てほしいね」という話になって、試しに渋谷でストリートライブをやってみたらめっちゃ人が集まって。その後も何度かやったんですが、いつも人が集まるんです。歌だけ、音楽だけ、ダンスだけで集客するのは難しいけど、バンドとダンスが一緒になるとこんなに注目してもらえるんだ!と。そこからTAP JAMCREWというチームを立ち上げたんですけど、小学校を回ったり、いろんな経験ができて。タップダンスはパッと見て何をやってるかわかるから、子どもにもウケるんですよね。そのときに気付いたのは、「自分は誰よりもダンスビートがわかるドラマーかもしれない」ということだったんです。それまで「ダンスをやってたからドラムに向いてる」ということは考えたことがなかったし、今もグルーヴを理解しているとは思ってないんですが、「ダンサーの目線で叩くことはできる」と。そのときに初めて「こういうブランディングもありかもね」と思ったんですよね。
――ダンサーのことがわかるドラマー。確かにユニークですね。
そうなんですよね。今は踊ってないですけど、ダンサーが気持ちいいと感じるところがわかるのは強みかなと。譜面にしたら同じリズムパターンであっても、踊れるグルーヴとそうじゃないグルーヴがあるし、それをジャッジできればどちらも叩けるので。ちょうどJ-POPの世界にも歌って踊るアーティストが増えていたし、そういう現場に呼ばれることも増えていきました。「ダンサー目線でビートを作るドラマー」って説明しやすいし、”ダンサー出身のドラマー”っていうのも戦闘力が高そうじゃないですか(笑)。そうやって自分のブランディングについて考えるようになったのは、プロとして活動を始めてからでしたね。
■自分の立場は人に決めてもらおうと思った。なので、ジャンルを狭める必要もない
――神田さんは後進育成のために「神田式ゆるふわドラム塾」を主催されています。Novelbrightのドラマーのねぎさんも神田さんのレッスンを受講したそうですが、教えることを始めたのは何がきっかけだったんですか?
上京した直後から人に教える機会はあったんですが、これは熱帯JAZZ楽団のカルロス菅野さんからいただいたアドバイスでもあって、当時は「あまり早いうちから教えることにかまけるのは良くない」と思っていました。まずは現場を増やして、「めっちゃ教えて、めっちゃ現場をやってる」みたいな状況にしたいなと。本格的に教えるようになったきっかけは、“#一日一グルーヴ”を始めたことかな。ドラムを叩いてる動画を1日1本アップしてたらチェックしてくれる人が増えて、「教えてください」と連絡が来ることが増えたんです。
――“#一日一グルーヴ”で神田さんのことを知った人も多そうですね。
唯一の営業コンテンツですからね(笑)。さっきもお話しましたけど、いろんなジャンル、いろんなパターンを叩けることを強みにしようと思った時期に始めたんですよ。ヒカキンさんの影響もありますね。その頃、ヒカキンさんが毎日動画を上げてて、「めちゃくちゃすごいな」と思って。
――なるほど。ミュージシャンもプロモーションは不可欠なのかも。
さきほど大工さんの話をしましたけど、僕らのお仕事はほとんど“知ってもらう”ことから始まると思っていて。”誰かから頂くお仕事”がほとんどで。自分で作品を作って、それを売って利益を得るのではなくて、発注してもらったり、現場に呼んでもらわないと仕事にならない。そのためにはとにかく知ってもらわないと。「このお店の名前、聞いたことがあるな」という方が入りやすいじゃないですか(笑)。あと、自分の立場は人に決めてもらおうと思ったんですよ。なのでジャンルを狭める必要もないし、ドラムを楽しく叩いて、楽しく練習して、「これが好きなんですよ」と機嫌よくしてればいいんじゃない?って。
――腕があって、機嫌がいいミュージシャン。現場の雰囲気もよくしてくれそうですね。
本当にそうなんですよ。一流のミュージシャンと仕事をさせていたくことも多いですけど、みなさん本当に明るし、いい意味でアホ(笑)、つまりちょっとハミ出してるんですよね。そこは僕も見習いたいと思ってます。SNSもそうで、いかに機嫌よく発信するかが大事なんです。「これ、超おいしいよ。よかったら食べてみて」って言われたらイヤな気持ちにならないじゃないですか。でも、「あんなの食ってるヤツ、信じられない」みたいな言い方だと、仮に内容が正しくても届かない。虫も人も明るいところに集まりますから。
――素晴らしい。今後のビジョンについても教えてもらえますか?
知らない世界を見てみたいタイプなので、いろんな可能性を模索して、興味のあることを続けていきたいですね。少しずつ海外に行きやすい雰囲気も出てきてるし、いろんな国のアーティストとも仕事がしてみたいです。世界に出たい!という大それた話ではなくて、初めての人と演奏するのは楽しいし、文化的背景が違えばいろんなことを感じられるはずなので。
――ドラムを始めたときの「楽器ができればコミュニケーションの幅が広がる」という動機は、今も同じなんですね。
そうですね。もしドラムを叩いてなかったら絶対に出会えなかった人ばかりですからね。それはすごいことだなと思ってます。
取材・文=森朋之

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