忌野清志郎の
バンドマンとしてのビギニング
RCサクセション初期の傑作
『シングル・マン』
RCのブレイク直前で再発
話は前後するけれど、『EPLP』(か『RHAPSODY』『PLEASE』辺り)でスタートした筆者のRC歴だが、当然それ以前の音源も遡って聴くことになる。1972年の1st『初期のRCサクセション』、2nd『楽しい夕に』、そして1976年の3rd『シングル・マン』。この3作がまさに文字通りの“初期のRC”。1980年以前であれば入手困難であったろうが、ブレイク期直前の1979年、[RCの新譜を待ちかねていた音楽評論家の吉見佑子が中心となり、「新譜が出せないのなら、廃盤となってしまった『シングル・マン』をファンの元へ」と叫び、「シングル・マン再発売実行委員会」を設立、吉見が事務局長となり、ポリドールへ同アルバムの再発売を働きかけ]たことで、1980年に『シングル・マン』が再発([]はWikipediaからの引用)。“初期のRC”の3作はいずれも入手できる状況ではあって、自分では買わなかったけれど、誰かが所有していたものを借りたか、あるいはレンタルレコード店で借りたかして聴いた。で、どうだったかというと…微妙だった。正直言ってピンと来なかったのである。
ただ、我がことながら、それは今でも止むなしだったと考える。仲井戸麗市=チャボの鳴らす、ぶっといレスポール。新井田耕造=こうちゃんの叩く、これまたぶっといスネア。そして、清志郎の歌詞。《どうしたんだ Hey Hey Baby/バッテリーはビンビンだぜ/いつものようにキメて フッ飛ばそうぜ》(「雨上がりの夜空に」)や《そうさおいらは一番キモちE だれよりも/キモちE サイコー サイコー/かかかかかんじる キモちE E》(「キモちE」)辺りに衝撃を受けた少年にとって“初期のRC”はちょっと地味に感じられた。周りのRC好きの中には♪2時間35分〜とか♪ぼくの好きな先生〜とか口ずさんでいた奴もいたけれど、当時の自分はやっぱりBabyやYeahがほしかったのだろう。辛うじて、「ヒッピーに捧ぐ」と「スローバラード」の入った『シングル・マン』は、それらの曲をコピーするために聴いたものの、『RHAPSODY』以降の作品に比べると再生回数は圧倒的に少なかった。「ヒッピーに捧ぐ」と「スローバラード」はLPでB面収録だったので、B面ばかり聴いていた記憶もある。
要するに、お子様の自分には“初期のRC”がよく分からなかったのだ。ゴダイゴやYMOが大ヒットしたり、サザンオールスターズがすでに一定の評価を得たりしていた1980年前後。自分にとって刺激的なのはバンドだった。フォークギターではなくエレキギター。メンバーにベースとドラムがいてこそ音楽だ…くらいにも思っていたのだろう。味覚同様、お子様の聴覚とはそんなもんだ。ただ、そこから年月を経て現在に至るまで、その後のRC作品、清志郎のソロ作品、あるいは清志郎が影響を受けたバンド、アーティストの作品、さらにはRCや清志郎からの影響を公言するバンド、アーティストの作品を聴くにつれ、“初期のRC”、とりわけ『シングル・マン』の自分内評価は上がっていった。おこがましい話だが、この辺も味覚に似ている。秋刀魚のワタを好んで食べる子供はいないけど、進んで食す大人はいる。そんなところではないかと思う(何か微妙に違う気もする…すみません)。真面目なところ、これは今回超久々に聴いてみて思ったことでもあるけれど、この『シングル・マン』というアルバム、なかなか複雑だ。個々の楽曲もなかなか個性的。ひと口に語るのは簡単ではないのである。お子様の耳に馴染まなかったとしても仕方がない…と、個人的に今さら言い訳のひとつもしてみたくなる作品なのだ。
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