「ミュージシャンから、編集者になっ
たふたり」FINDERS 米田智彦 × ミー
ティア 石野亜童 編集長対談【前編】

カルチャー好きの青年は、それぞれどう
やって「編集者」になったのだろう?

編集者。その職域は実に広く、基本的には裏方の職業のため「どんな人が」「なにをしているのか」はあまり知られていません。
そこで今回、「クリエイティブ×ビジネス」を掲げるウェブメディア・FINDERS編集長の米田智彦と、ミーティア編集長の石野亜童による全2回のスペシャル対談を(思いつきで)敢行。互いに元ミュージシャンという異色の経歴を持ち、紆余曲折を経てメディアの長となった2人。「まずは自己紹介をば」と語り始めたら、お互いのエピソードが特濃すぎたため、対談前編では、2人がそもそもどのようにして編集者の道を歩んできたのかというお話をお届けします。ミーティアとFINDERS、2つのメディアをまたいだ合同企画になります。

Photography_Shinji Serizawa
Text_Sotaro Yamada
Edit_Kenta Baba


FINDERS編集長 米田智彦の編集者遍歴

石野:こんにちは!

米田:どもども。

石野:この時間からゴールデン街にいるの、はじめてかもしれないですね。

米田:いやーレアですよね。あ、えっと、ブラッディマリーください。
石野:米田さんとは、先日いちど飲みの場でご一緒しまして、そのときはカルチャーの話がメインで、そもそもお互いの経歴とかってちゃんと知らなくて。まずは「FINDERS」とは?米田智彦とは?みたいなところから聞いてもいいですか?

米田:僕の自己紹介、経歴グチャグチャなので異常に長いですよ。それだけで3万字くらいになっちゃう。

石野:そうですよね。ハイライト的に、ギュギュッとお願いします。

実力はあるものの「ルックスに華がない

米田:端折って言うと、まず、28歳くらいまでは音楽をやっていたんです。20代をミュージシャンとして過ごしたという点は石野さんと同じですよね。バンドを解散してからはフリーターになって、時事通信の社会部でアシスタントを始めました。アルバイトしながら、宅録で音楽つくってレコード会社に売り込んでいたんです。日本のレコード会社にも送っていたんですが、洋楽の好きなミュージシャンが所属している海外のレーベルに国際郵便でCDを送ってね。そしたら、好きなミュージさんが来日した時に電話かかってくるんじゃないかって勝手に妄想してましたね(笑)。

石野:それはいつ頃の話?

米田:1997〜2000年くらいですね。大卒後、4年間フリーターやって、報道機関にいたので、その時に原稿の書き方の基本を覚えましたね。それが後に編集者になった時に生きてくるわけですが。音楽に関しては、実はメジャーレーベルでデビュー寸前まで行った話がいくつかあったんです。だけどディレクターに「君は天才だ!でもルックスに華がない」と真顔で言われたりして。

石野:ルックスに華がない(笑)。

講演用の資料作りのために昔の写真を整理してたら、25年前の自分がいました。

米田智彦さん(@tomohiko_yoneda)がシェアした投稿 –

米田:それについては自分でもわかってたから別によかったんだけど(笑)。驚いたのが「君を売り込むために4000万円投資する用意がある。そしてそれを4年間で回収する。その自信は君にあるか?」と持ちかけられて。

石野:それでどうしたんですか?

米田:断りましたね。……そんな自信ありません、って。だって売るためにどうせタイアップとかドラマの主題歌とか、書きたくない曲を書かされることが目に見えていたから。それで徐々に人のライブにも行かなくなって、CDも聞かなくなって、楽器も売ってしまって、しばらくは音楽をなるべく遠ざけてきましたね(苦笑)。

ライターとしての初仕事は「ムエタイ選
手のコメントを想像で書く」こと

石野:そこから編集者に?

米田:そう。音楽の次に、書くことや雑誌や本が好きだったから、なんとか編集者になれないかなと。でも全くの未経験だったこともあって、片っ端から出版社受けたけど落ちまくったんです。

石野:その頃ってたしかに編集者やライターになりたい人って多かったですもんね。フリーランスは出版社にとって買い手市場だったような気がします。
この日対談を行った、新宿ゴールデン街のプチ文壇バー「月に吠える」

米田:90年代は「これからはITかバイオが来る!」と言われていて、僕はウェブデザインはできたんですが、プログラミングがさっぱりわからなかった。そんな時に、バイオの研究所が東京にできる、という記事を見つけて。一旦別の道に行ってみようとおもって、2000年当時、あたらしくできた「独立行政法人産業技術総合研究所」のバイオの研究所の広報を1年間くらいやっていました。応募したら受かって、視察にやってくる国土交通省や経産省の人にプレゼンしたり館内案内したりして。プロモーションビデオもつくって、2000万円くらい予算使いましたね。

石野:規模がすごい(笑)。

米田:だけど、本当はカルチャー誌や音楽誌をやりたかったこともあって、フラストレーションがたまっていたんです。だから、土日は後楽園ホールに小さい頃から大好きだったプロレスと格闘技の試合を見に行っていてばかりいて。当時は『BOUT REVIEW』という格闘技サイトが立ち上がったばっかりで、ボランティアで記者を募集していて。それに応募して、誰も見てない第1試合のムエタイ選手のコメントをとってました。タイ人の選手とタイ人のトレーナーと、専門誌の記者と、あとは自分しかいなくて、誰も英語を喋れないという(笑)。
BOUT REVIEW

石野:それ、どうやってコメントとるんですか?

米田:想像です。「出だしのローキックは手ごたえがあったが、相手のカウンターのハイキックにやられてしまった」とか。

石野:おお、それっぽい(笑)
米田:ほとんど妄想で書いたコメントがサイトに載って署名も出て、記者って面白いなぁと感じましたね。次第に土日はどこかの会場でコメントを取るか試合のレポートをさせてもらえるようになって。それがきっかけで、今は懐かしいi-modeのプロレス・格闘技のサイトのディレクターになって、毎日のように試合や記者会見の速報をやるようになるんですね。リングサイドの横でPC持ってカチャカチャやるわけですよ。そしたら選手の歯が飛んで来たりとか、血がPCにポトって落ちたりして、やっぱ現場っておもしれえと。そこで寄稿してもらっていた格闘技のライターさん経由で『週刊ゴング』を出版していた日本スポーツ出版社がスタッフを募集しているから入らないかと誘われました。それが編集者人生のスタートです。そのときが30歳くらいかな。

石野:格闘技が編集者へのとっかかりだったんですね。
『週刊ゴング(最終号)』(後に復刊)

米田:格闘技もプロレスも大好きでエキサイティングな日々でしたけど、本当はカルチャーがやりたいのに、毎日男の裸ばっかり見てるのも飽きるわけですよ。やっぱりカルチャーに関わる仕事ができないかなと常々思っていたところに、『ラ・プリヴェ(後に『WORLD INSITE』に変更)っていう裕福層向け会員誌の編集の仕事が転がり込んで来まして。自分1人で編集長兼編集者として入って、スイスの金融やドバイの開発、オーストラリアの観光を扱ったり、世界中の高級リゾートを取材したりして、「俺、ようやく理想の編集者になれた!」って思いましたね。2年ぐらい雑誌をつくってたんですけど、あるとき湯布院の『無量塔(ムラタ)』っていう1泊6万円〜7万円くらいする老舗高級旅館の取材が終わって会社に戻って来たら、突然、雑誌は休刊する、と言われて。しかもしばらくして会社は潰れて、社長が粉飾決済で逮捕されるという。そうしてフリーになったんです。
iPhone発売に合わせたスティーブ・ジョブズを表紙にした『WORLD INSITE』

石野:波乱万丈すぎる(笑)。

米田:あてもなくフリーになっちゃったから、しばらくはお世話になった人たちの手伝いとか印刷所のチラシのコピーを書くとか、そうやって食いつないでましたね。

飲み屋で偶然得た「幕末」の書き仕事。

米田:その次にやったのが、パズル誌やデコトラ専門誌の出版社がはじめたファッション誌。そこではエディトリアル・ディレクターという立場で入りました。109系のメンズファッション誌でしたね。当時は『men’s egg』全盛期だったから。でも最初はスポンサーやクライアントなんていないわけですよ。そこで、新宿のホストクラブのオーナーから求人広告を1本40万〜50万で出してもらおうと。深夜1時に打ち合わせに行くんだけど、2時間くらい遅刻して来るんです、泥酔して(笑)。

石野:あー、相手が?

米田:そう、相手が泥酔して遅刻(笑)。で、「求人内容はこちらでよろしいでしょうか?」と見せて。その求人内容は「年齢不問、髪形・ルックス問わずオールオッケー、寮完備」とかで、応募電話番号は090から始まってる(笑)。

石野:完全に個人番号だ(笑)。
米田:その雑誌はファッション専門の編集プロダクションと組んでて、ほしのあきさんとか俳優の塚本高史さん、女性誌で人気のモデルさんたちを表紙にしたり、ファッショングラビアを撮ったりしてました。男がモテるためのファッション誌というコンセプトでね。でもそれも1年ちょっとで休刊しちゃってまたフリーになっちゃうんですよ(苦笑)。この時、36歳くらいかな。フリーに戻ってからは『GQ』とかで原稿を書いていたんだけど、2010年頃に坂本龍馬ブームが起きるんです。大河ドラマで『龍馬伝』やったじゃない? 僕、幕末が好きなんで、自分がいかに幕末好きか飲み屋で熱く語ってたら、偶然飲み会で知り合った『FRIDAY』の編集者から、龍馬の人生を毎週1ページずつ書かないかって言われて。幕末の志士の肖像写真プラス文字で35回くらい連載しました。自分で高知にも行って。末志たちののお墓と銅像を写真で撮りまくってね。その流れで別の幕末本の監修もやりました。

石野:すごいな、泥酔ホストに営業してた翌年には、まさかの幕末ライター。

米田:それがきっかけでいろんな出版社と仕事するようになったんです。同時期に『TOKYO SOURCE』っていうWEBマガジンを有志でやっていて。「東京発、未来を面白くする100人」というコンセプトのWEBマガジンなんだけど、当時そこまで有名ではなかった気鋭の表現者たち(チームラボの猪子寿之さんとか、AR三兄弟の川田十夢さんとか)をインタビューしてたんです。その活動をまとめたのが『これからを面白くしそうな31人に会いに行った。』という本。
『これからを面白くしそうな31人に会いに行った。』(ピエブックス・2008年)

家賃の払い忘れから生まれた、ニュープ
ロジェクト

米田:それから、2010年の暮れはめちゃくちゃ忙しくなって、マンションの更新費を払えず、強制的に部屋を出なきゃいけなくなったんだけど、あたらしいマンションを見つけるのが面倒で、家具や家電をほとんど捨てちゃったんです。で、「人生最後のバックパックツアーは東京だった」っていう見出しがふと浮かんだんです。世界を放浪している人はゴマンといるけど、東京都限定で放浪している人はいないだろうと。そこで、Twitterで「#nomadtokyo」っていうハッシュタグをつけて、泊めてくれる人を募集してみたんです。

石野:そこからノマド・トーキョーが始まったんですね。
ノマド・トーキョープロジェクト(当時公開していたサイト※現在は閉鎖)

米田:始めてみるといろんな人が「変な人いるんだけど泊めてやってくんない?」って人間バトンみたいにつなげてくれて、家から家を泊まり歩く生活が始まった。当時はシェアハウスが一般的になりはじめたタイミングだったから、シェアハウスのオーナーから「使い勝手とか悪い所とか知りたいから、ブログに書いてくれたら無料で住んで良いよ」って言われて、巨大なシェアハウスに一人で住んでUstreamで中継したり。それに感化されたデザイナーさんがノマド・トーキョーの公式サイトを作ってくれた。GPSを使って米田mapっていうのをつくったんだけど、それを見た人が「今日うちのリビングに泊まりに来ませんか?」って面白がってくれるようになった。あとはヨガの先生がインドに修行に行くあいだ、光熱費と郵便物の受け取りをやってくれたら家賃ゼロで住んで良いと言ってくれたりして。そんな感じで、開始早々1ヶ月半で8軒くらい自由に住める家ができちゃったんです。

石野:すげえ。
米田:ノマド・トーキョーでプチブレイクしたのは良かったんだけど、その後すぐに2011年の東日本大震災に遭ってしまった。地震や津波で家をなくした人がたくさんいるような社会状況で、自分から家がないなんて言ってる場合じゃないですよね。このプロジェクトには出版社もすぐ付いて本も出すことが決まってたんだけど、プロジェクト自体を本にするのではなく、そのプロジェクトで出会った人たちの面白さ、あたらしい生き方、暮らし方をまとめた文化論のようなものを書こうと思った。それが『僕らの時代のライフデザイン 自分でつくる自由でしなやかな働き方・暮らし方』です。
『僕らの時代のライフデザイン 自分でつくる自由でしなやかな働き方・暮らし方』(ダイヤモンド社・2013年)

米田:そのノマド・トーキョーを最初に報道してくれたのがライフハッカー[日本版]で、そのご縁もあってライフハッカー[日本版]の編集長に就任して、3年半やりましたね。そして今年の4月に自分の会社を立ち上げて、今は『FINDERS』というあたらしいWEBメディアにトライしている、という現状です。
米田さんが3年半編集長を務めていたライフハッカー[日本版]

石野:覚悟はしてたけど、めちゃくちゃ濃いですね、経歴。

米田:これでもかなり端折ってます(笑)。

石野:ありがとうございます。いまメインでやっている『FINDERS』ってどんなメディアなの?ということも教えてください。
FINDERS 「クリエイティブ×ビジネス」をテーマに、新たなイノベーションを生むウェブメディア
https://finders.me

米田:『FINDERS』は「クリエイティブ×ビジネスをテーマに、イノベーションを生むメディア」と謳っています。クリエイターの人たちもビジネスマインドがないと生き残っていけないし、ビジネスパーソンもクリエイティブをわかっていないといけない。これからの時代は両方なければ生き残れないと常々考えていて、それを具現化するメディアにしたいと思った。クリエイティブ×ビジネスという両軸でいろんな人・企業・モノ・コト・プロジェクト・テクノロジー・アイディアなどを紹介していくメディアですね。

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「ミュージシャンから、編集者になったふたり」FINDERS 米田智彦 × ミーティア 石野亜童 編集長対談【前編】はミーティア(MEETIA)で公開された投稿です。

ミーティア

「Music meets City Culture.」を合言葉に、街(シティ)で起こるあんなことやこんなことを切り取るWEBマガジン。シティカルチャーの住人であるミーティア編集部が「そこに音楽があるならば」な目線でオリジナル記事を毎日発信中。さらに「音楽」をテーマに個性豊かな漫画家による作品も連載中。

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