初音ミクはいかにして真の文化となっ
たか? 柴那典+さやわかが徹底討論

(参考:BUMP、冨田勲、渋谷慶一郎……初音ミクと大物アーティストがコラボする意義とは?)

・「30代より上と10代前半でものすごい文化の断裂がある」(柴)

さやわか:この本のおかげで、初音ミクについてわざわざ説明しなくても「読んでおいてね」で済むようになったので、非常に楽になりました(笑)。実際のところ反響はどうですか?

柴:嬉しかったのは、音楽業界とは関係のない大学の友人から「娘が初音ミクにハマって、本を買いたいと言ってる」ということで、娘さんから直筆の手紙が届いたこと。彼女は初音ミクにハマって、いろいろ調べたくなったそうなんです。手紙には「色紙にサインしてください」って書いてあって、超嬉しかった。初音ミクの本を出して気づいたのは、僕と同じ世代や40ちょいの人から「娘がハマっている」って聞くことが本当に多いこと。今、こんなにローティーンがハマっているものを目の前にすることって他にないです。

さやわか:探すほうが難しいですね。

柴:初音ミクって、どうしても黎明期のニコニコ動画のイメージが強いせいで、20代から30代の男性が好きな印象が持たれがちですよね。それはある意味正しいんですけど、今はむしろ10代の方がハマっているんです。しかも男の子よりも女の子のほうが多い。去年の横浜アリーナの『マジカルミライ』というイベントでは、僕は取材ということで「18歳以下限定」のコンサートに入れたんですけど、そうしたら、お母さんと一緒に来ている子が本当に多い。どうやら小中学生の女の子たちにとっては、クラスで話題になっていて、それについていくためにミクの曲を聴くっていう入り口が多いみたいです。

さやわか:こんど『一〇年代文化論』という本を出すんですが、ちょうど昨日にその本のデザイナーさんとお子さんについて話をしていて。その子は音楽を全然聴かないって言うんですね。でも「じゃあボカロは?」って訊いたら「それは聴く。それしか聴かない。ていうかテレビ見なくてニコ動しか見ない」って。そういうのって今、わりと普通だと思うんですね。

柴:実は今の日本って、30代より上と10代前半でものすごい文化の断裂があるんじゃないか、と思うんです。ボカロとか関係ない話ですけれど、つい先日、『笑っていいとも!』の最終回があったじゃないですか。ダウンタウンやとんねるずなど、お笑い怪獣たちが一同に介して話題となったわけですが、実は喜んでいたのは30代以降で、ひょっとしたら10代前半の子はそれほど関心がなかったんじゃないだろうか、と。

さやわか:そもそも、とんねるずがどういう存在なのかすら、10代にはもはやわからないでしょう。最終回の昼にビートたけしが出て、80年代について語りながら「テレビの絶頂期だもんね」というようなことをチラッと言ったんです。逆に言うと「いいとも」が終わる今は、すでにテレビの絶頂期がとうに終わっていることを意味している。テレビタレントの中でも一番偉いと目されているビートたけしがそう言うのだから、本当に「何かが終わったんだな」と思いました。実際、若い子はボカロしか聴かないしテレビも見ないでニコニコ動画を見ているという話を最近はよく聞きます。テレビコンテンツは一部のものしか届いていない状況かと。

柴:もちろん、ジャニーズやお笑いとか、そういうメジャーなエンターテインメントコンテンツは相変わらず10代に人気だとは思うんです。だから決して10代がテレビを観てないわけじゃない。だけどその一方で、どちらかというと中二病的な心を持った少年少女に、ボカロが刺さっているということはあるんじゃないかと思います。ちなみに、「中二病」って揶揄するような意味合いで使われることが多い言葉だけれど、僕はある種肯定的に使っていて。英語で言うなら「ティーン・スピリット」であるとも思うんですよね。

さやわか:先日、新房昭之監督にお会って、じん(自然の敵P)さんのカゲロウプロジェクトが原作の映画『メカクシティアクターズ』のお話を伺いました。そのときに仰っていたのは、「繊細な子たちが聴いているんだと思うから、繊細な作品にしたい」ということ。「いわゆる中二病みたいなやつですか?」と訊いたら、そうではなくて、もっとロック的な自意識だというんですね。つまり「人とは違っていたい」というツンツンした自意識で、それは「痛い」と言われるようなものなんだけど、中二病がこれだけ認知されて、柴さんが仰ったように肯定的な捉え方も出てきているから、今度はそういうロック的な若者の自意識も世の中に受け入れられてもいいのではないかと新房さんは仰るんです。

・「初音ミクがキャラクターソング的なものからその後どう発展したか」(さやわか)

柴:僕はロッキング・オンという出版社の出身なんですが、いわゆる「ロキノン系」とされる音楽が好まれてきた背景にも、そういう自意識がある。そういうものにコミットする人間はいつも一定層います。「俺が聴いてるものは世の中で流行ってる音楽とは違うんだ」的な、中二的な感性を持ったリスナーの受け皿となりうる音楽が、2000年代後半からは実はボカロだったんじゃないか、というところもこの本の着想の一つになっています。

さやわか:その推測は当たっていたということになりますね?

柴:実際にいろいろと調べて、ハマっているのが10代であるっていう事実は、僕にとって嬉しい発見でした。かつて洋楽やロキノン系のバンドを聴いていた少年少女の自意識と、今ボーカロイドを聴いている少年少女の自意識とを、重ねあわせることができる。そういう仮説がこの本の根底にある。なので、この本は30代、40代の洋楽リスナー、ロックファンにも読んでほしいと思います。

さやわか:新房さんも、もちろん10代の、メインのファン層であるカゲロウプロジェクトのリスナーに今回のアニメを観てもらいたいんだけど、この感覚ってロキノン系を聴いていた30代にもわかるはずだから、そういうものが好きだった大人もその文脈で観てくれたらいいなと仰っていました。

柴:ボカロにハマる10代の心理や自意識のあり方って、思春期の世界の感じ方として正しいと思うし、僕はそれを肯定したいんですよね。繊細な10代の受け皿になってくれた、ということは書きたかったことのひとつでもあります。その子が大人になったときに「自分が好きだった初音ミクってなんだったんだろう?」と思ったときに読んでくれるとすごく嬉しいというか。あとで振り返って、自分の思春期を肯定するようなものでもあってほしい。

さやわか:そうそう、ボカロについてよくわからなくても、そのメンタリティは40代の洋楽リスナーだって楽しめるはずなんですよね。

柴:そうなんです。一方で、年配の方に読んでもらいたい気持ちはすごくありました。ちなみに、当初の書名は『初音ミク音楽史〜サード・サマー・オブ・ラブの時代』だったんです。ただ、出版元の太田出版の社長から「“音楽史”と銘打ってしまうと音楽に興味がある人にしか届かない」と言われて。そこで改めて僕から提案した書名が『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』だった。そこにはポジティブな意味合いもあって、要はこの本を「ビジネス書として売りたい」ということだったんです。そういう読み方もできる本になっているというのは、僕も後から気付いたことでした。「2007年にクリエィティブであることのルールが変わった」ということを、実例を元に書いている、という。クリエイティブビジネスの参考書にもなっているといいなと思います。

さやわか:なるほど。この本はシーンの変遷をきちんと追っていますね。もしこれがキャラとしての初音ミクの話だったら、たぶん批評的な更新ができているとは言えなかったでしょうね。しかし、この本は初音ミクがキャラクターソング的なものからその後どう発展したか、という話がちゃんと書かれています。

柴:初期のN次創作的なムーブメントと、「千本桜」「カゲロウデイズ」のように2010年代に入ってニコ動の代表曲になっているようなタイプの曲って、もはや環境が変わっているので、作られ方も受け入れられ方も違うんですよね。また、シーンの変遷という意味で言えば、いわゆる音楽シーンとの距離感の変化も大きいと思います。そこには自分自身の音楽メディアに属する者としての反省もあって。音楽業界の人間は、00年代を通してずっと「CDが売れない、どうしよう?」ということばっかり言っていたんです。「もう音楽産業は終わりだ」と頭を抱えたり「これからはライブの時代だ」と言ってみたりしていて。結局はCDが売れなくなっていることが全ての議論の出発点にありました。僕自身もそういうことばかり考えて、そういうことばかり書いてきたんだけれど、実は2007年にこんなに素晴らしい幕開けがあった、という。

・「現実が、CDを売るか否かという問題を追い越していってしまった」(さやわか)

さやわか:音楽業界にいる者にとってボカロシーンはいわゆる音楽シーンとは切り離されたところで盛り上がっているもので、自分たちとは関係のないものとして扱ってきてしまいました。

柴:ボーマス(THE VOC@LOiD M@STER)のような同人即売会に行けば、ネットで無料で聴ける曲もCDで沢山売れているんですよね。そこで買っている人はお店で買うCDとは違う意味を見出しています。2000年代末ぐらいに、そういうところも含めてビジネスとして新しい形が生まれて、ようやく音楽業界が乗り出してきました。僕もそこで気づいた人間です。

さやわか:自分の反省でもありますけれど、そこに気づくまでは「若い人は音楽を聴かなくなったね」なんて言っていました。僕もあるとき、ニコ動でやっていることは音楽がないと成り立たないコミュニケーション行為であることに気づきました。MADもそうだし、「踊ってみた」「歌ってみた」もそうですけど、むしろ彼らにとって音楽が表現行為の中心にきていて、カルチャーの中心にこんなに音楽があることは珍しいくらいなのに、今まで知っていたような音楽シーンとは違うから「音楽が聴かれなくなった」と言っていたわけです。

柴:皮肉な話ですけれど、以前にあるバンドマンの大学生が塾教師のバイトでカゲプロファンの小学生の女の子と出会って会話したという話を読んだことがあって。小学生の女の子は「何でCDなんて買わなきゃいけないの? スマホでYouTubeで聴けばいいじゃん」と言っていて。大学生の子は音楽ファンだから「CDを買わなきゃダメじゃない? CDは歌詞カードもジャケットもあるし、音もいいだろ。」と言うんですけれど、小学生の子は「私は音楽を聴きたいの。音がよくても悪くても私には関係ないし、音楽だけ聴ければいいの。」と返す。そういうことですよね。「私は音楽だけ聴ければいいの」って、なんだか村上春樹の小説に出てくるセリフみたいな響きですけど(笑)。

さやわか:たとえば津田大介さんの『だれが「音楽」を殺すのか?』は広い視野で音楽について考えて、音楽を救おうとしているでした。僕もとても共感したんですが、でも今振り返ってみるとやはり、いかにCDを売るかというパラダイムの中で書かれているものだったんですよね。現実が、CDを売るか否かという問題を追い越していってしまったというか。

柴:音楽ビジネスのあり方はいまだ更新され続けていて、そこはそこで、この本のもうひとつのラインになっています。例えばカラオケとJASRACと著作権の話についてもそう。初めの頃、カラオケでどんなにボカロ曲が歌われていてもボカロPには一銭も入りませんでした。当時ニコ動やDTMの愛好者からJASRACが嫌われていることもあり、ネットでの自由な利用が制限されるのではないかという懸念もあって、楽曲がJASRACに信託されていなかったんですね。しかしJASRAC、クリプトン、ドワンゴ、ボカロPで話し合いが持たれ、「支分権」というすでにあった著作権の考え方を使うことによって特定の権利だけを信託する方式が生まれた。これによって、ボカロPはネットでの自由な楽曲の使用を許諾しながらカラオケによる収入が得ることが可能になった。それはたぶんボカロがなかったら生まれなかったスキームだと思います。

さやわか:JASRACが管理している権利は実はその中でいろいろと分かれている、という話ですよね?

柴:そうなんです。すべてまとめた契約が一般的ですけれど、実は利用形態に応じて分けることができる、ということです。また、JASRACだけでなくイーライセンスやジャパン・ライツ・クリアランスという著作権管理事業者もあり、新しい仕組みが次々と生まれている。アマチュアのネット上での創作からビジネスが生まれたという意味で、これは偉大な出来事だと思います。でも、過去を振り返ってもムーブメントはいつもアマチュアから始まっているんですよね。60年代にもそうでした。フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」は京都の学生が遊びで作ったレコードで、67年にスタートしたオールナイトニッポンでヘビロテされたことで流行り、インディーズの先駆けになりました。多くのムーブメントはアマチュアから発祥して、それが商業化に向かう流れをたどっています。そしてムーブメントの終わりはいつも商業化です。2つのサマー・オブ・ラブもそうでしたけれど、ムーブメントはだいたい5、6年で終わる。メディアとビジネスマンが「これは若者の新しいカルチャーだ、しめしめ」と商業化に乗り出すと、最初からいる人は「ふざけんな」と熱が冷めていく。そういうことが繰り返されてきました。初音ミクに関しても、それが起こる、あるいは起こっていると捉えていました。僕が頑張ったのはインタビューでクリプトンの伊藤社長にそれを言ったこと(笑)。

さやわか:言ったんだ(笑)。

柴:言うべきかけっこう悩みましたが、「ブームは去ってもカルチャーは死なない」ということを考えたんです。60年代の「サマー・オブ・ラブ」のムーブメントが終わった後にロックミュージックが死んだかといえば、そんなことは全くない。むしろ70年代に黄金時代を迎え、その後もずっと続いています。80年代の「セカンド・サマー・オブ・ラブ」も同じように、90年代以降テクノやEDMなどクラブミュージックの文化が定着しています。そういう風に「これからはカルチャーの内実が豊かになっていく」というポジティブな見立てを持って、伊藤社長と「ブームはもう終わりましたよね?」という話をしようと思ったんです。そうしたら伊藤社長はもっと壮大なスケールで返してきました。「初音ミクは情報革命である」と言ったんです。

さやわか:話がデカいなぁ!

柴:アルビン・トフラーの『第三の波』で書かれている考え方で、人類の歴史には農業革命・産業革命・情報革命という三つのインパクトがあったという話なんですよね。しかも伊藤社長曰く「情報革命なんてまだ起こっていない。これから数十年掛けて起こっていくんだ。その最初の灯火が初音ミクなんだ」ということを言うんです。僕は60年代や80年代と比較して話を出したら、伊藤社長は1万5千年前、200年前という壮大なタイムスケールとの比較で返された(笑)。この本のハイライトはそこです。伊藤社長がそういうビジョナリストだから、ミクのカルチャーが続いていくものとして位置づけられることができた、ということは言えるかもしれません。特に黎明期、キャラクターとして注目されたときには、アニメ化の話などが舞い込んだけれどすべて断ったそうです。ブームではなくて文化にしたいという感じなんでしょうね。

・「電子音楽の系譜に初音ミクがあったことが証明できる」(柴)

さやわか:なるほど。しかし一方で、近視眼的なビジネスの視点でのボカロシーンもたしかにありますよね。ここ数年はメディアやレコード業界が、まさにそこへ一斉に注目している状態が続いています。しかし彼らがそうやってビジネスとして乗ったのはいいことだと個人的には思っているんですよ。しかしでは、何故すぐには乗れなかったのか、ということがすごく気になっています。その理由をどう考えていますか?

柴:それは結局、オーバー30の音楽業界人が「結局オタクのものでしょ?」と最初に思っちゃったことが、壁を作ったんだと思います。レコード業界もそうだったし、プロダクションも、自分も含めて多くの音楽メディアもそうだった。作り手側のクリプトンは、新しい楽器、しかも人格を持った楽器という新しい概念を出したつもりだったんだけれど「プロ向けではない」という烙印が最初に押されてしまった。開発者の佐々木渉さんは「あえてチープに、おもちゃっぽいロリータボイスにした」と言っていますが、僕も含めて2007年の時点ではその意図を理解していなかった。

さやわか:身も蓋もない言い方をすると、音楽業界は、オモチャとして作っているものを「オモチャじゃん」と言ってしまったわけですね。しかしそこで僕が面白いなと思ったのは、佐々木さんのお話の中に竹村延和さんの名前が出ていたことです。

柴:竹村延和さんが初音ミクの開発にあたっての重要人物だったというのは、この本で初めて明かされる事実だと思います。僕にとっても驚きでした。竹村延和さんは、90-2000年代前半にテクノやエレクトロニカのシーンの最前線を走っていた人でした。2002年に『10th』というアルバムを出しているんだけど、その中でスピーチシンセサイザーなどを駆使してコンピューターに歌わせるようなことをしていたんです。で、初音ミク開発者の佐々木渉さんは竹村さんの大ファンだった。クリプトンは初音ミク以前にもいくつかのボーカロイドソフトを輸入販売していましたが、竹村さんは海外製のとあるソフトそれを買って、「使い物にならない。こんなものを売っていて大丈夫なのか?」というクレームのメールをクリプトンに送っているんです。

さやわか:かなり辛辣なメールだったらしいですね。

柴:佐々木さんも相当悔しかったようです。アルバムも全部持っている大好きなアーティストから怒りのメールが届いたわけですから。そこで佐々木さんが「俺がやる」と開発に手を挙げた。竹村延和さんからのクレームに発奮したということが開発のきっかけの一つになっているんですね。電子音楽の系譜に初音ミクがあったことが証明できるひとつのエピソードです。

さやわか:竹村さんに言われたこともあって、徹底的な技術革新を志したことで、使えるものになったと。でも僕が面白いと思ったのは、そこで佐々木さんが最終的には「リアルな人間の声が作れます」という方向性をある程度捨てて、あえてオモチャっぽいロリータボイスにしたという話でした。それは竹村さんに言われたことに、うまい解決を見つけた部分ですよね。

柴:ツッコミどころがあるというのが、結果的に大きかったんでしょうね。いきなり完成度の高いものを見せられても「すげえ」としか言えない、という。特に初期のニコ動はネタ文化というか、動画にツッコミを入れる場所でした。そういう意味で、アイマス(THE IDOLM@STER)は偉大だったと思います。舌足らずでちゃんと歌えていないものをみんなで愛でるという文化が下地になった。それからMAD動画には、深夜ラジオのネタ投稿と似たところがある。よりクールな言い方をすると、ヒップホップの初期もそうなんですよね。この本の中では、80年代のセカンド・サマー・オブ・ラブの当事者であるUMAA.incの弘石社長がそういうことを言っています。要は、それまでの価値観で音楽を聴く人には稚拙としか映らないようなものでも全くいいんだ、と。稚拙なものでもバーンと出して、みんなでツッコミを入れながら場を楽しんでいく、という文化として始まったんだと思います。

さやわか:柴さんが仰ったボカロムーブメント初期の、ただ楽しむためのものであって商業化されていなかった頃というのは、たぶんそういう文化なんでしょうね。しかし商業に乗せていくとある種の洗練をさせなければいけないから、稚拙な部分が排除されていく。それを嫌う人もいると思うんですけど、しかしそれによって大きな意味でのシーンとして完成した、ということなんでしょうね。でもさっきの話で言うと、伊藤社長が志すのは、そんな音楽業界的なシーンの成立を越えて、次の時代にもボカロが残るようにしたいというわけですよね。

柴:伊藤社長の非常にシンプルなビジョンとしては、世の中にもっとクリエイターを増やして、質・量ともに沢山の創作活動が生まれるようにしたい、ということがあるんだと思います。そこにボーカロイドの存在意義があると位置づけている。最後のインタヴューでは、それが地方の活性化や世の中の変化にもつながると言っている。「初音ミク」というものがある、ということ自体はすでに沢山の人が知っているわけです。しかし、あらゆるカルチャーが基本的にそうなんだと思いますけれど、その本質が何かということが伝わるのは、本当に少しずつなんでしょう。

さやわか:なるほど。初音ミクというものが存在する、ということは共通認識にはなった。しかしそこから、だんだんと世代交代が起こっていくんでしょうね。やがて初期のボカロシーン、初期の初音ミクのシーンを知っている人の考え方も古びて、時代に合わなくなっていくはずだけれど、しかし「初音ミクで創作をする」ということだけは将来も残り続ける。初音ミクとかボカロがブームではなく、真に文化になるというのは、きっとそういうことなんだと思います。
(後半へ続く)
(取材・文=松田広宣)

リアルサウンド

連載コラム

  • ランキングには出てこない、マジ聴き必至の5曲!
  • これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!
  • これだけはおさえたい洋楽名盤列伝!
  • MUSIC SUPPORTERS
  • Key Person
  • Listener’s Voice 〜Power To The Music〜
  • Editor's Talk Session

ギャラリー

  • 〝美根〟 / 「映画の指輪のつくり方」
  • SUIREN / 『Sui彩の景色』
  • ももすももす / 『きゅうりか、猫か。』
  • Star T Rat RIKI / 「なんでもムキムキ化計画」
  • SUPER★DRAGON / 「Cooking★RAKU」
  • ゆいにしお / 「ゆいにしおのmid-20s的生活」

新着