初音ミクはどう世界を変えたのか? 
柴那典+円堂都司昭+宇野維正が徹底
討論

(参考:「初音ミクを介してローティーンにBUMPの歌が届いた」柴那典+さやわかが語るボカロシーンの現在)

■「ボカロカルチャーに10代特有の熱を感じた」(柴)

ーーまずは、柴さんが本を書くことになったきっかけから訊いてみたいと思います。

柴:僕が運営している「日々の音色とことば:」という個人ブログに初音ミクの話を書いたら、それを読んだ太田出版の林和弘さんから連絡があって、これで一冊書きましょうよと。書いた当初は本にしようという気は全然なかったけれど、ブログには単純にその時興味を持ったいろんなネタを載せておいて、それをきっかけにいろんな繋がりができたらな、とは思っていました。

宇野:ブログから始まったという意味でもネット的な本だよね。

円堂:僕も柴さんのブログは面白くて読んでいたし、本としてまとまるのをすごく楽しみにしていました。ただ、本の中でJPOPや洋楽についても触れられてはいるけれど、ここまで初音ミクに特化した内容になるとは思わなかった。こういう形は意外でしたね。

ーー円堂さんの著書『ソーシャル化する音楽』(2013年。青土社)でも初音ミクについて触れられていますが、取材をベースとした柴さんの著書とは異なる、文化批評的なアプローチですね。

円堂:僕は『ソーシャル化する音楽』を書く10年前に『YMOコンプレックス』(2003年。平凡社)という本を出しています。その時にビートルズのレコーディング風景にまで遡り、テクノロジーと音楽の関係を軸にした文化論を考えました。その本の進化版として、『ソーシャル化する音楽』を書きました。僕の場合は文芸・音楽評論家を名乗っていて、文芸評論的なアプローチというか、文献にあたることを軸とするスタイルです。また、本では音楽史を語ることもしていますが、それ以上に近年の音楽と周辺文化の関係性、たとえば音楽とインターネット、あるいはカラオケ、ゲーム、ケータイ・スマホなどとの関係性を、網目状に浮かび上がらせることに力点をおきました。

ーーそれに対して柴さんの本は、取材を通して事実を掘り起こしていくというスタイルで書かれている。

柴:初音ミクに関しては本にも書いている通り、僕自身がムーブメントに乗り遅れていて、ミクが誕生した2007年に居合わせていないんですよね。そういう意味で圧倒的な情報量の足りなさがあるので、執筆の際はクリプトン社の伊藤博之社長や、開発担当者の佐々木渉氏に証言を取りに行くというスタイルになりました。また、僕は2010年に入ってからボカロの音楽を聴いたり、クリエイターに話を聞いたりするようになったのですが、その時に初期の「みくみくにしてあげる」みたいな、いわばキャラクター文化的な初音ミクとは明らかに違う受け取り方をしている層がいることに気付いたんです。きっかけは米津玄師さんだったと思うんですけど、そこに10代特有の熱をーーいわば僕が00年代にロックバンドを通して感じていた熱と似たものを感じたんですね。今回、この本を書いた後に、まだ10代だった2008年からボカロを聴いていた女の子が「『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』って本があって『変えてねぇよ』って思っていたけど違った。私を変えてくれていた」って言っていたのが印象的で。それって主語は初音ミクだけど、それをロックミュージックに置き換えることもできるのかと。「ロックンロールは世界を変える」みたいな話って、実際、サンボマスターなどのロックミュージシャンもよくそういった発言をするわけで。その意味で同じ構造があったということも、この本で主張したかったところです。

■「セカンド・サマー・オブ・ラブは極めて局地的なムーブメントだった」(宇野)

ーー今回の本では初音ミクを発端とするムーブメントを、1960年代末のサマー・オブ・ラブ、1980年代末のセカンド・サマー・オブ・ラブに続く、サード・サマー・ラブ・ラブと位置づけているところに特徴があります。

円堂:サマー・オブ・ラブに着眼して整理するというやり方は、面白かったと思う。いまだに最初のサマー・オブ・ラブの世代は頑張っていて、去年はローリング・ストーンズとポール・マッカートニーが来日して、今年はポールが再来日だし。彼らの時代から現在までの音楽史を見渡そうとした時、サマー・オブ・ラブはわかりやすいとっかかりになる。

——宇野さんはセカンド・サマー・オブ・ラブの現役世代ですが。

宇野:現役世代というか、ギリギリ間に合った世代。学生の頃、90年、91年、92年とかに毎年イギリスのクラブやフェスに行ったりして、現場の空気と、それがダメになっていく過程を一応は体感できた。郊外での非合法レイブとか、そういうのは当時ハードルが高すぎて行けなかったけど(笑)。そういう世代だから、柴くんから最初の案の「初音ミクとサード・サマー・オブ・ラブの時代」ってタイトルを聞いた時は、腑に落ちるところと、そうではないところがあった。ファースト・サマー・オブ・ラブはみんななんとなく知ってると思うけど、セカンドのあり方というのが世間的にはいまいち理解されていない気がするんですね。実際、この本で触れられている実証例も少ないと思う。実はセカンドって最初はイビサを経由してのUKドメスティックなもので、極めて局地的なものだったんですよね。レイヴカルチャー自体は、ベルギーとかドイツとかのテクノ系のレーベルとも連動してヨーロッパには広がってはいたけど、それでも当時は、電子音楽先進国といえるような国々にある程度限られていたムーブメントだった。

円堂:1960年代末のサマー・オブ・ラブは、当時のベトナム戦争への反対運動や学生運動などと地続きの現象でした。だから、その世界に浸っていない人でも、社会への反抗といったイメージで外からとらえやすかった。それに比べるとセカンド・サマー・オブ・ラブは、政治性、社会性の希薄な快楽主義で、踊らない人、ムーブメントの外にいる人にとってはいまひとつ、つかみどころがないものだったと思う。

宇野:で、改めて考えると、今のEDMって当時はダンスミュージックの後進国だったスウェーデンとかオランダとかのDJがその中心にいて。それがダンスミュージックの後進国中の後進国であるアメリカの全土にまで広がっていった。つまり、20年以上前にセカンド・サマー・オブ・ラブで蒔かれた種が、当時の子どもたちのDNAに刻まれて、それがこの時代に世界中で爆発しているのがEDM現象だっていう見方もできる。そういう意味で言うと、柴くんが初音ミクをサード・サマー・オブ・ラブと位置付けたとき、恐らく多くの人は「とはいっても日本での話でしょ」って違和感を感じたと思うんだけど、セカンドだって最初は局地的なものだったんだよっていう。それが20年以上経って、より大衆化、風俗化することによって現在の音楽界を覆っているという現状を考えると、もしかしたら20年後には台湾や韓国といった日本の周辺国によってボカロが主流化することだってあり得るかもしれない。そんな想像をかき立てるという点で、あのタイトルは個人的にすごく腑に落ちたんですよね。

ーーセカンド・サマー・オブ・ラブは、円堂さんが指摘したように政治性や社会性、いわばラブ&ピースといった理念性はあまりなくて、さらに言えばセックスやドラッグの快楽を追求するという面が大きかったのでは?

宇野:そう。そこが腑に落ちなかったところ(笑)。僕らが生まれる前のファーストだってそうだっただろうし、セカンドなんて当時の現在進行形のムーブメントでいうならその90%くらいがドラッグカルチャーで、音楽的な部分は10パーセントくらいだった。それゆえに、日本ではあまりリアリティを持って語られなかったんですよね。そう考えると、初音ミクをサードと位置づけたときに、ドラッグに相当するものはなんだろう、という疑問が湧きます。

柴:DOMMUNEの宇川直宏さんの見方を借りると、ファーストはドラッグを意識改革に使っていて、セカンドは快楽のために使っていた。で、ヒッピーカルチャーの中心的人物のひとりで、60年代にドラッグによる意識改革を研究したティモシー・リアリーという心理学者がいるのですが、彼は晩年になるとコンピューターをLSDに見立てて研究しているんですね。つまり、インターネットが意識や感覚を拡張したっていう見方ができる。

宇野:なるほど、そこには意識の改革もあるし、快楽もあると。そう考えると、一応筋は通ってくるね(笑)。

柴:ヒッピーカルチャーが、インターネットの誕生とリンクしていたことを発見したとき、サマー・オブ・ラブを軸とした見立てに確信めいたものを感じましたね。

■「JPOPが高速化するのと並行して、グダグダを楽しむ文化も広まってる」(円堂)

ーー先ほど円堂さんは、ある時期における音楽と周辺文化の関係性を網目状に記述したと仰ってましたが、柴さんはいわば縦軸、歴史性の導入の方に興味があった。

柴:言ってしまえば、単純にロックとつなぎたかったんです。僕はロッキング・オン出身で、そのキャリアが活かせるブルーオーシャンは他にないと思いました。

ーー柴さんがつなぎたかった“ロック”という文化は、どういったものを指している?

柴:日本のロックシーン自体が、2003年にTHEEMICHELLEGUNELEPHANTが解散したあたりから、思春期的でエモーショナルなロック・バンドが主流に切り替わってきたように感じています。ロックには、いわゆるスタイリッシュなかっこよさ、遡って行くとそれこそザ・フーやローリング・ストーンズといった、ロック・レジェンドから脈々と続くバンドのかっこよさもある。しかし00年代以降の日本のロックは言ってみれば「中二病」的な部分も魅力になっているのかと。僕自身は、それをポジティブに捉えていて、そういう文脈でも初音ミクとつなぎたかったんですよね。

円堂:それはよくわかりますが、キャラクターではない楽器としての初音ミクについて、もう少し読ませてほしかったという感想も持ちました。僕の場合、『ソーシャル化する音楽』の中で、キャラクターとしてのミクに至るまでを追っていて、その後に関しては、あまり追求していなかった。その先は、柴さんがやってくれるだろうと思っていたので(笑)。あと、最近の音楽について、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』の「浮世絵化するJポップとボーカロイド」の章では、楽曲のBPMが高速化して密度が濃くなっている、という指摘をしていますが、それって単純に体力が続かないと思ったんですね。たとえば、ももいろクローバーZのライブなどを観ると、3曲くらい続けて歌い踊った後、ゼイゼイしてグダグダなMCが始まったりするじゃないですか。ファンは、そんなグダグダも愛している。だから、高速化する一方で、グダグダもセットになっているのではないかと。そんな議論もしてみたいですね。

宇野:PerfumeのMCが長いのも、ある意味同じですよね。特にワンマンになると異様に長い(笑)。

円堂:曲の間はテキパキ踊っていても、そうしないともたないわけだし。あんまり間をおかずガンガン演奏するバンドだったら、1時間ちょっとでおしまいとか。2時間も3時間も高速でノンストップなんてできないでしょうし。結局、JPOPが高速化するのと並行して、グダグダを楽しむ文化も広まってる気がします。

柴:ニコ動などはそういう文化ですしね。それはあるかもしれません。

宇野:日本のロックバンドのBPMが速くなったきっかけって、凛として時雨とか、9mm Parabellum Bulletとか、X JAPANマインドがDNAに刻まれている世代のバンドが台頭してからだから、もう随分経つよね。最近はダンスロック系のバンドにしても、そうじゃないバンドにしても、また違ったフェーズに入りつつあるようにも思うんだけど。

柴:それはあるかもしれない。僕は、今の20代のバンドって、90年代とかに比べて遥かに演奏能力が上がっていると思っていて。

宇野:上がっている、上がっている。みんな上手くてビックリする!

柴:sasakure.UKっていうボカロPがプロデュースする有形ランペイジっていう日本のバンドがいて、2011年に「人間では演奏不可能なボカロ曲を演奏する」っていうコンセプトでデビューしたんですよね。で、「千本桜」っていう曲などを演奏していたのですが、今となっては「千本桜」はけっこうみんな演奏するんですよ。高速化を多くのバンドが乗りこなしつつある。この演奏能力の向上には、僕なりに思い浮かぶ理由がある。初音ミクを好きな子ってゲームから入っているケースが多いんですよね。実は初音ミク最大のヒット作は『初音ミク-ProjectDIVA-』というリズムゲームのシリーズで、曲に合わせてタイミングよくボタンを押すというものなんです。こういった音楽リズムゲームはずっと定番で、90年代からあるものなんですけど、最近の若いミュージシャンはあのアーキテクチャに適応している人が多くなってるんじゃないかと。リズムゲームで良い点数を取るには、0.01秒とかの単位でタイミング良くボタンを押さなければいけないので、正確に細かくリズムを刻むことができる才能が育まれたのではないかと思うんです。

■「ボカロには開発者側の前提を無視した冒険がもっとあってもいい」(円堂)

宇野:僕がわからないのは、YMO世代には電子音楽に対する強烈なフェティシズムがあったじゃない。彼らは電子音楽の歴史や、そのルールのようなものに強いプライドや排他性を持っていた。だけどボカロ世代のフェティシズムのあり方がいまいちわからない。自分は、音楽って結局のところフェティシズムだと思うんですよ。今でも、海外の若いバンドはそれを音圧に込めたり、音色のテクスチャーに込めたりするじゃない。なんかその音圧やテクスチャーが希薄な感じがしちゃうんだよね。

柴:たしかにボカロ界は複雑なところはあって、僕が本の中で評価したり紹介しているクリエイターって、基本的にはそれを使って自分の表現をしたいクリエイターで、あくまでボカロをツールとして使っている人たちなんですが、でも一方で、ニコニコ超会議とかにいくと、初音ミクと添い寝や握手をできるっていうコーナーに長蛇の列がある。フェティシズムはそこにあるんですね。つまり、いるかいないかわからない、2次元のものだけど自分がそこに愛情を注ぐことができるっていう。そこはもう音楽的なフェティシズムとは違うのだけど、そこがボカロカルチャーを初期から支えている要素には間違いない。だからそこにひとつのネジレがありますね。

宇野:自分がハマるかハマらないかは別として、そっちのフェティシズムの方にむしろ突破力を感じるな(笑)。

円堂:ボカロがキャラか楽器かって議論をした時に、楽器として使っていると言っても、結局は歌声として使っている。言葉を歌わせるソフトとして開発されたんだから、当然なんだけど。で、過去のことを考えると、僕がシンセサイザーという楽器を意識するようになったのは、逆説的ですが、クイーンがきっかけなんです。彼らの1970年代のアルバムは「ノー・シンセサイザー」を売りにするところがあった。そこでシンセっぽい音を出していたのは、ブライアン・メイのギターと、コーラスなんですよ。コーラスで一番高い声を出しているのはドラムのロジャー・テイラーなんだけど、金属的なキンキンした音色なのね。それでメンバーの声を多重録音して加工して、キーボードや効果音のように使った。声を楽器として使うというと、僕はそういう領域の表現を想像してしまう。初音ミクに関しては、実験的なことをやっている人はいても、やっぱり詞のある歌が主流。でも、開発者側の前提を無視した冒険がもっとあってもいいんじゃないか。登場した時には珍しかったメロディを歌わないヒップホップ、歌がなくて反復ばかりのハウスやテクノだって、大衆音楽になったんだから。

柴:たしかに実験的なことをやっているクリエイターもたくさんいるけれど、再生数は伸びていなくて、実際にフックアップされるのは、内面的な葛藤や物語を歌詞に託すタイプのクリエイターです。僕はポップスが好きなので、ランキング1位になるような人たちを取り上げていったのですが、結果として当時の思春期の人たちに刺さるような音楽性のものが多く、そういった意味で00年代のロックシーンと相似点があったのかもしれません。そういった論点も含めて、この本をきっかけにいろいろな人が初音ミクの可能性について議論を深めていければ嬉しいですね。(リアルサウンド編集部)

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