宇多田ヒカルと1対1で向き合うような
時間、3年7ヵ月ぶりアルバム『BADモ
ード』携えた配信ライブを振り返る

Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios

2022.1.19
宇多田ヒカルという人間と1対1で向き合うような時間だった。前作『初恋』から3年7ヵ月ぶりのリリースとなった8枚目のアルバム『BADモード』の発売日であり、宇多田の39歳の誕生日でもある1月19日に配信された初の有料オンラインライブ『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios』だ。
パンデミック以降、多くのアーティストが新しいライブの在り方として配信という手法を取り入れるようになったが、個人的に、宇多田ヒカルの配信ライブとして強く記憶に残っているのは、約10年前、2010年に活動休止前の最後のライブとして開催された横浜アリーナでの公演だ(パソコンの回線が弱く何度かフリーズしながら見たのをよく覚えている)。当時、今回と同じように全世界で配信されたライブは大きな話題を呼んだが、いま振り返ってみると、なんて先鋭的な試みだっただろうと改めて思う。あのときは満員のアリーナ会場に、様々な演出と共に見せた圧巻のショーが印象的だった。だが、今回は違う。宇多田が活動の拠点にしているロンドンのスタジオで、最新作『BADモード』の楽曲を中心に演奏したアットホームなライブには、ライティングによるわずかな装飾の類すらない。あるのは辣腕のプレイヤー陣による演奏と宇多田の歌だけだった。だが、それで十分だったのだ。“いまをいかに生きるか”という内省的なテーマが通底する『BADモード』という作品には、その表現方法がとても似合っていた。
バンマスのベーシスト、ジョディ・ミリナー(Jodi Milliner)をはじめとする7名のサポートミュージシャンらと共に、宇多田がスタジオに足を踏み入れるシーンからライブははじまった。白いシャツに黒いパンツというカジュアルな服装。マイクの前に立った宇多田はぐっと体を伸ばし、肩をまわした。「キー、キー、キー」と少しおどけるように発声をすると、スタジオに笑顔がこぼれた。1曲目はアルバムのオープニングトラック「BADモード」。トライバルなビートと柔らかなシンセのフレーズ、渋いサックスの調べにのせて、宇多田の儚くも透明感のあるボーカルが軽やかに転がった。《絶好調でもBADモードでも/君に会いたい》。アルバムの核心とも言えるフレーズが心地よく伝わってくる。シンセの音色がリズム楽器のように緻密に重なり合い、極上のグルーヴを聴かせた映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』テーマソング「One Last Kiss」、切ないピアノのイントロを皮切りに低音域から高音域へとレンジの広い歌唱を聴かせるドラマ『最愛』の主題歌「君に夢中」へ。時々目を閉じ、演奏に身を委ねるようにして、宇多田はゆるやかに体を揺らしながらメロディを紡いでいく。
ライブ中、特に目を引いたのがプレイヤーの人数よりも圧倒的に多いシンセサイザーの数だった。3人のキーボーディストが楽曲ごとにそれらを使いわけることで、シーケンスは極力使わず(一部、宇多田自身のコーラスを流す楽曲はあるが)、徹底して生音にこだわった緻密なグルーヴを人力で生み出していく。ベース、ドラム、パッカーションによる土台のリズムは、前作『初恋』で顕著だった先鋭的なアプローチがさらに洗練され、記名性の高い宇多田のメロディと美しく噛み合っていた。そんな2022年型にアップデートされた宇多田ヒカルを象徴していたのが「誰にも言わない」だった。幾重にも重なり合い、言いようのない陶酔感を生む音像のなかで渋いサックスの調べを伴いながら、ひらひらと舞う花びらのようにメロディが流れ落ちていく。宇多田ヒカルにしか作れない世界観に息を呑んだ。
4曲を終えて、ここまでの手応えを共有するようにサポートミュージシャンと短く言葉を交わし、宇多田はサムズアップのポーズを見せた。その音使いに遊び心が溢れる全編英語詞の「Find Love」に続き、どこか初期曲を彷彿とさせるメロディアスな日本語詞の「Time」へ。過去には日本語で表現することへのこだわりを強く感じる作品が多かったが、今作は日本語詞も英詞も自由に行き来する。ジャンルの垣根もなく、その瞬間、その瞬間の自分の感情にフィットする表現を自由にチョイスするのがいまの宇多田のモードなのだろう。
早くもライブは後半へ。時間が経つのも忘れるような名演のなか、7曲目に披露された「PINK BLOOD」が素晴らしかった。イントロはなし。ピアノの伴奏で歌い出し、硬質なビートにギターと複数のシンセが絡み合う緻密なサウンドのうえで《Pink Blood》というフレーズが何度も繰り返される。ぎゅっと眉を寄せ、宇多田が日本語の歌詞で紡ぐのは《私の価値がわからないような人に大事にされても無駄》《自分のことを癒せるのは自分だけだと気づいたから》というフレーズ。そこに、誰かの価値観ではなく、自分が《キレイ》だと思うものを大切すればいい、という想いが浮かび上がってくる。この曲を聴くと、なぜ、宇多田が今回のアルバムに“GOODモード”ではなく、“BADモード”と名づけたかったのかがわかる気がした。ダメな自分も受け入れて、許して、愛してあげること。それでも進み続けることが、つまり生きていくということだと、『BADモード』という作品は教えてくれる。
今回のアルバムのなかではもっとも古い楽曲となる、ゲームソフト『キングダムハーツIII』のオープニングテーマ「Face My Fears(English Version)」はピアノを軸にした生々しい音像でドラマチックかつダークな世界観が描き出した。昨年、映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のエンディング曲として新たに生まれ変わった「Beautiful World (Da Capo Version)」では、アコースティックギター1本と歌のみではじまった演奏がやがて豊かなバンドサウンドへと広がっていく。そんなふうに、宇多田ヒカルの人生と共に歩んできたと言ってもいいような幸福なコラボレーションによって生まれた楽曲たちが披露された終盤のタームは、2004年にUtada名義でリリースした世界デビューアルバム『EXODUS』からの「Hotel Lobby」と「About Me」で締めくくられた。いずれも生の質感を大切にしたアレンジにいまの宇多田だからこその優しく力強い歌声がのる。この2曲を選んだ理由は、もちろん国内外のファンに向けて、意外な曲をやるというサービス精神もあっただろうが、今回のアルバム『BADモード』のテーマ性に近しいものがあったからではないかと思った。本当の自分の姿を打ち明ける「About Me」という曲では、ちょっと不思議なメロディラインで《Up and down and down down down down we go》と歌われる。上がっては下がって、下がって、下がって、下がって、下がって、私たちは進んでゆく。それこそ、まさに“BADモード”だ。
すべての演奏を終えたあと、メンバー同士で拍手を送り合うと、ふっと安堵したように宇多田の表情がゆるんだ。最後はカメラに向かって視聴者に英語と日本語で感謝を伝えた。「今回はふつうの会場みたいなライブはできなかったけど、こういうふうにやることによって、ふだんは共有できない(心の)奥のほうの特別な空間を初めて共有できたような気がします」。その気持ちは聴いている側も同じだった。たとえ物理的にひとつの場所を共有していなくとも、心の奥底で共鳴するような深いリスニング体験がそこにあったからだ。それを可能にしたのは『BADモード』という、“生きること”の本質を、どこまでも平熱の温度感で見事に炙り出した最新アルバムの存在が何よりも大きかった。人間の心そのものを音楽にしていく。いまの宇多田ヒカルはそんな新しいフェーズにいるのかもしれない。
取材・文=秦理絵

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