【短期集中連載】3つの「シン」から
読み解く『シン・エヴァンゲリオン劇
場版』 親と子の物語はいかに決着し
たのか

『シン・エヴァンゲリオン劇場版(以下本作)』が公開され、26年前に始まった「エヴァンゲリオン(以下エヴァ)」がついに円団を迎えた。
改めて振り返ってみると、「エヴァ」という物語は多くの要素を内包していた。ファンや識者による様々な言説の中で作品は育てられ、大きく膨らんでいった。本作も多くの視点で語り得る充実の内容であったと思う。
2016年、庵野秀明監督は『シン・ゴジラ』の「シン」の意味を問われた時、「観た人それぞれが好きに解釈していただいて構わない」と発言していた。今回の「シン」もきっと同様だろう。
ならば、この多くの要素を持つ物語を、様々な「シン」で読み解いてみたい。この全3回の集中連載は、筆者がとりわけ重要と感じた3つの「シン」を取り上げ、本作について掘り下げてみる。
選んだのは、「親」「sin(英語で罪の意)」そして「進」の3つだ。1回目の今回は、本作を「親」の観点から見つめることにする。
※編集部注 本コラムには『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレが含まれております。ご注意の上ご覧ください。

■第3村の幸せな親子
「エヴァ」は、親と子についての物語だった。物語の上でも親子の確執を題材にしているが、イメージ上でも親と子の肉体的・精神的つながりを想起させるものが数多く登場する。
例えば、人型決戦兵器エヴァンゲリオンのエネルギー源はアンビリカルケーブル(へその緒)と呼ばれるし、パイロットのコックピットであるエントリープラグは子宮を連想させる。エヴァンゲリオンには魂があり、その魂はパイロットたちの母親のものであることも示唆される。
90年代にTV放送・劇場公開された『新世紀エヴァンゲリオン(以下旧劇)』で描かれた親子関係は、大抵上手くいっていないものばかりだった。主人公の親子しかり、葛城ミサトと父の関係しかり、弐号機パイロットのアスカしかり、赤城リツコとその母親しかり。「エヴァ」は歪んだ親子関係のオンパレードだった。
そうしたイメージを『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は覆した。
本作の前半で描かれるのは、シンジやアスカ、アヤナミレイ(仮称)らが、ニアサードインパクト(ニアサー)を生き延びた人々が暮らす第3村での生活だ。ここで、シンジの元クラスメイトの鈴原トウジと洞木ヒカリが夫婦となって赤ん坊を授かっていることが判明する。
この第3村のシーンは、これまでのシリーズになかった要素が満載だ。旧劇では、物語が進むにつれ、一般市民やクラスメイトは特段の説明もなく姿が描かれなくなっていく。かつて、庵野監督は宮崎駿氏に「群衆を描けない」と批判されたことがあるが、その庵野監督が名もなき人々の生活を丹念に描写したことは、本作最大のサプライズだったと筆者は思う。
トウジとヒカリの親子の生活は、この村の描写でも中心的な位置を占める。両親とも生まればかりの赤子を慈しみ、夫のトウジは「世界一の嫁さんや」と素直にヒカリを絶賛し、ヒカリもまた幸せを噛み締めている。この親子は健全な家庭として描写されており、旧劇で描かれたような親子関係とは対照的だ。
トウジとヒカリは、ニアサードインパクト後の苦難の中で結ばれたと、シンジはケンスケから教えられる。「ニアサーも悪いことばかりじゃない」とケンスケは言う。かつてのエヴァンゲリオンにはなかった健康的な親子が、シンジが引き金となった未曾有のカタストロフをきっかけに生まれたという事実は、シンジの心に、静かな、しかし確実に大きなインパクトを与えたのではないだろうか。
■葛城ミサトと2人の息子
本作の物語は、3つのパートで構成されている。シンジの心の再生を描く第3村での生活、ミサト率いるヴィレとネルフの最終決戦、そしてシンジと碇ゲンドウの対峙と内面世界の旅だ。最初のパートでこの作品世界にも健全な親子関係があり得ると示した後、2つめのパートでも一つの親子関係に決着がつく。
2つ目のパートで決着がつけられるのは、1つの疑似親子関係だ。主人公シンジと、物語を通して彼の保護者役を担った葛城ミサトの関係である。この2人の関係も旧劇とは異なる結末を迎えた。
「ガキに必要なのは恋人じゃない、母親よ」というアスカの台詞に合わせて、カットがミサトに切り替わる。ミサトはシンジにとってどのような存在なのか、本作は旧劇以上に明確に示したことで彼女の役割がクリアになり、シンジの成長の後押しとなっている。
父との確執を残したまま大人になったミサトは、シンジとの接し方、距離感を測りかねていた。旧劇のミサトは、シンジの母親代わりになりそこなっていた。最後までシンジとの有効な距離感を定め切ることができず、時に母親のように、時に女のように接してしまう。母親が息子に対して「大人のキス」を教えたりはしないだろう。
そんな彼女は、本作では加持リョウジとの間に子供を授かっていたことが明かされる。ニアサードインパクト直後に生まれてシンジと同じ14歳であるその息子は、母の存在を知らないという。ミサトも名乗るつもりはないと言いつつ、息子の影をシンジに重ねるようにして見る。そのことで、旧劇では母親代わりになれなかったミサトが、本作ではシンジの母親代わりの立場を明確にできた要因となっている。
ミサトは旧劇の時と同じように今回も、シンジを庇って銃に撃たれる。しかし、その後の言動は180度異なる。旧劇では「大人のキス」をしたが、今回は「彼は今も私の管理下にあります」とヴンダーのクルーに告げる。その時の彼女は、艦長というよりも母親の顔をしていた。この時、ミサトはシンジのもう1人の母親になれたのだ。
■碇ゲンドウと父殺し
第二の母親たるミサトが、最後の戦いに挑むシンジに向かって「子が父親にできるのは、肩をたたくか殺してあげるだけよ」と言い、最後の対決に向かうシンジを送り出す。
その先にシンジを待ち構えていたのは、父碇ゲンドウだ。「エヴァ」は第壱話で、シンジとゲンドウの対面と拒絶から始まった物語だ。その父子の対立に決着をつけたことが、本作が完結できた最大の要因だろう。
「エヴァ」は父殺しの物語だったはずだ。しかし、旧劇では、2人の対決が明確な形で描かれなかった。ゲンドウはシンジの知らないところでイメージの初号機にグチャリと潰されてしまい、主人公のシンジからすれば、自分のあずかり知らないところで自動消滅してしまったような印象になっていた。
父殺しとは何か。父とは支配するものの象徴だで、親とは異なる自我を確立するためにまず乗り越えなければいけない壁である。シンジは、シリーズを通して、常にゲンドウに高いところから見下ろされる立場だった。第壱話に始まり、何度も反復されるその構図は、シンジの中におけるゲンドウの位置を明確に物語ってきた。父は、シンジにとってずっと手の届かない場所から見下される目上の人間だったのだ。
本作で、ようやくシンジはゲンドウと同じ目線に立つことができた。さらには内面世界の電車のシーンでは、うなだれるゲンドウを、大きな高低差はないが見下ろしてもいる。この時、シンジはゲンドウが実は自分と同じように他者におびえながら生きてきた人物であると知ることになる。
シンジは、第3村での生活や母親代わりのミサトの想いを受け止めることができるようになっていた。ようやくシンジは父とは違う人生を歩めるきっかけをここに掴み、電車を降りるゲンドウを見送ることで、自分の人生のレールを行くことができるようになったのだ。
最後のシーンでシンジは、ゲンドウとは全く異なる人間として成長していた。マリに発するあの一言だけでそれがよくわかる。精神的な父殺しは果たされたのだ。
健全な親子関係を目の当たりにし、第二の母親に背中を押され、父を乗り越えた。息子はいつか母親から離れ、父を超えてゆく。それが親子の宿命だ。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、その宿命に正面から向き合ったからこそ、完結できたのだ。

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