《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員イ
ンタビュー〜 Vol. 5 鶴澤清治(文
楽三味線弾き)

舞台上で鮮やかに動く、文楽の人形たち。その横(舞台上手)の“床”(ゆか)で気迫みなぎる音を響かせているのが、文楽三味線弾きの最高峰、文化功労者で人間国宝の鶴澤清治(77)だ。8歳での初舞台から70年。しばしば”切っ先鋭い”と評されるアグレッシブな三味線の原点とは、そしてまもなく国立劇場が閉場する中で文楽に抱く思いとは?
清六師匠に弟子入りし、8歳での初舞台
清治さんは終戦の2ヶ月後、1945年10月15日に生まれた。戸籍上は大連出身となっているが、実際に生をうけたのは疎開先の静岡だという。10歳で叔父にあたる初代鶴澤清友、のちの二代目鶴澤道八の養子に。1953年、7歳で四代目鶴澤清六に入門し、8歳で初舞台を踏む。
「僕は、今もそうですが(笑)三味線が嫌いでね。でもやらざるを得ない環境だったわけです。他に何か才能があったらそちらに行っていたでしょうけど。家がミナミで旅館をやっていて四ツ橋の文楽座から近かったので、小さい時から楽屋へ出入りし、いたずらをしては怒られていました。当時、僕らは松竹のもとにいたのですが、後継者がいないから子供がいたら出せという流れで初舞台が決まって。自分が覚えたところしか弾かず、知らないところはみんなが弾いていても膝に置いてじっとしていました。まだ力がなかったので、途中で三味線の調子を変える(調弦)ところは、後ろにいる親父が手をにゅっと伸ばして合わせてくれて」
四ツ橋文楽座『寿式三番叟』で初舞台。下手端に座っているのが清治さん。   提供:鶴澤清治

高見順原作・有吉佐和子脚色・演出『雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)』(1956年)で胡弓を弾く清治さん。横にいるのが、本作の作曲も手掛けた師匠の鶴澤清六。   提供:鶴澤清治
師匠となった清六は有吉佐和子の小説『一の糸』のモデルとされる人物。清治さんの入門後ほどなく、人間国宝に認定されている。

「清六師匠は偉い方だから、僕は直接習うというより主にその弟子でのちに歌舞伎の竹本に入った鶴澤正一郎さんに教わったのですが、10歳くらいから、師匠が床に座る時、バチや膝枕などを渡していました。ですから、師匠が舞台に出る前に楽屋で弾かれる姿と音をよく覚えています。開放弦をトーン、テーンと、ゆっくり弾かれるだけなのですが、力加減とバチの角度でしょうけど到底真似のできない音でしたね。ソナエという弾き出しの、トーン、テーン、トーン、トーン、トトーン……という手があるのですが、それがもうどう考えても他の人とは桁違いでした。なんとか真似しようと思っても、今でも遠く及びません。開放弦が一番難しいのかなあ。もちろん押さえて弾く難しいところもありますが、開放弦であんな厳しい音を出す人はいません。楽器に対してもこだわっていました。皮の張り替えはお金かかるのに、三味線を持ってきてチョンチョンと弾いて、張り具合が悪いと『張り替え』。バチも、僕らは真ん丸になるまで使いますが、ちょっとでも減ったら『使えない』。(一番太い)一の糸なんて普通は短くても3~4日は使うのですが、清六師匠は毎日替えていらした。それくらい音へのこだわりがすごかったんです」
≫彌七師匠のもとへ。そして越路師匠と
彌七師匠のもとへ。そして越路師匠と
その清六師匠が亡くなったあと、1964年に十代目竹澤彌七に入門。
「しばらく親父のもとでやっていて、結構うるさく言われていたのですが、『やっぱり他人の釜の飯を食べた方がいい』と勝手に決められて。彌七師匠は大変な名人でしたが、僕のことを非常に可愛がってくださり、手取り足取り教えていただきました。僕の基本はほとんど彌七師匠ですね。文楽の三味線、義太夫の三味線は、速くきれいに弾くことも大事だけれど、心がこもっていなかったら駄目だ、テーンと弾いた時に何を思って弾いているのかが肝心だ、といったことを何度も言われたのを覚えています。義太夫の三味線はインテンポ(一定の拍子)ではなく、ヨレやネジレのようなものが不可欠。そしてそれは心を持っていかなくては表現できません。ここをちょっと短くしてこっちを長くして、というような考えでは弾けないんです。彌七師匠は文楽ではあまり並びもの(複数の太夫、三味線で演奏すること)には出なかったけれど、歌舞伎に複数で出る時、僕は師匠の後ろに座ることが多かったんですよ。そうすると師匠の息がわかって勉強になりました。こちらがちょっと音を外したら、師匠が本番中でも振り向くので気を遣いましたが(笑)」
八代目竹本綱太夫とのコンビで知られた彌七。綱太夫逝去後は四代目竹本越路太夫を相手に三味線を弾き、1972年には人間国宝に認定されたが、1976年に自ら命を断つ。
「彌七師匠の三味線は彦六系統の芸。簡単に言うと派手にバリバリと、場合によっては太夫を蹴散らしてでも弾く、というような芸風です。一方、文楽系統は地味で、三味線は出しゃばらない、という芸風。全く違うわけです。綱太夫という方は(豊竹)山城(少掾)師匠の一番弟子で、越路師匠ももともと山城師匠の弟子だけれども(二代目野澤)喜左衛門師匠にずっと指導されてきたから、表現の仕方が異なるところはずいぶんあったはずです。越路師匠と組む前、彌七師匠が『喜左衛門師匠に弾いていただいていたわけだから負い目を感じる』というようなことをおっしゃったら、越路師匠は『いや、そちらだって(綱太夫)兄貴さんの相手だったから、五分五分だ』と答えられたそうですが、引っ張り合いになったら文章を持っている太夫の方が強く、彌七師匠といえども付き合わざるを得ない。どちらも名人ですが芸風が違う以上、不本意なところが絶対に出てきますから、その葛藤があったと僕は思います」
文楽の三味線の芸は一人では成り立たない。太夫と三味線と、どちらかが一方的に合わせるのではなく、常に緊張感ある応酬をしながら音を作っていかなければならないところに、文楽の床の喜びと難しさがあるのだろう。そして彌七亡き後、越路太夫の相手を引き継いだのが清治さん。当時31歳だった。
「『君に弾かせようと思う。君と僕とでは親子ほど歳が違うけれど、思ったようにぶつかってきなさい』というようなことを言われて。最初の5年間ほどはついていくのが精一杯。越路師匠も60ちょっとで元気だったので、僕が悪いところへ入ってもそれを押さえつけるように語られていました。でも段々と体力が衰えるにつれて、隅から隅まで指図通りでなければ語れなくなってきます。注文が微に入り細を穿つようになってきて、こちらは従うように努力しつつ、自分なりに違和感を覚えるところが出てくる。越路師匠と組んだ13年間のうち後半は特に険しいもので、けっこう衝突もしました。毎回、出られないような細い穴から這い出るような感覚でしたね。最後、かなり感情的になり、僕が『じゃあどうぞ他の三味線でおやりになってください』と言ったところ、越路師匠は引退を選択されて。原因が僕かどうかはおっしゃいませんでしたけれども」
苦しみの多い13年間。それは同時に、芸を極める最高の期間でもあった。
「僕は早くに死んだ先代の(豊竹)呂太夫くんと同い年で、二人で会をやったりもしていたんですが、彼は越路師匠が引退された時、いみじくも『君は今後、誰を弾いても満足できないよ』と言いました。その後、今は故人となった方も含めて色々な太夫と組みましたけれども、つい『越路さんはそんなこと、言わないだろう』という思いが頭をよぎってしまうんです。仲悪かったのにね。ある意味、僕の本当の芸は越路師匠と共に終わったのかもしれません」
越路太夫との『仮名手本忠臣蔵』勘平腹切の段(1976年)。   提供:鶴澤清治
文楽協会創立25周年記念の「天地会」では、人形遣いの吉田簑助と共に踊りを披露(1988年)。       提供:鶴澤清治
≫文楽の三味線とは
文楽の三味線とは
今では、清治さんのように子供の頃に文楽入りする技芸員は少なくなった。習得する年齢は、実際のところどれくらい芸に関わってくるのだろうか。
「技術的には、ある程度年を取ってからでも問題ありません。ただ、子供の頃からいたからこそ、文楽の空気みたいなものを知らず知らずに吸収したところはあるでしょうね。微妙なニュアンスみたいなものは、成人してからでは掴みにくい。あと、文楽では関西弁以外の言葉を『訛っている』と言いますが、関西出身でない人は訛りが直りません。山城師匠は関東育ちなので最後までアクセントには相当気を遣っていらして、何かのレコーディングの時、京都生まれ、京都育ちの武智鉄二さんに直してもらっていました。清六師匠も自分の三味線は訛っているとおっしゃっていましたね。江戸前の切れ味のいい演奏法だったので、関西のまったりとした雰囲気は、ご本人が受け入れないところもあったのでしょう。三味線の訛りは、テンポや、音から音への移り具合に表れます。横の太夫が訛っていても、三味線が自ずと変わってきます」
影響し合う、太夫と三味線。さらに、舞台上の人形から影響を受けることもあるという。
「僕らは『人形を見たらいかん』とやかましく言われますが、それでも気配というものはあって、作用し合っています。先代の(吉田)玉男さんのような力のある人形遣いだと、太夫も三味線もそちらに引っ張られるように感じました。(太夫、三味線、人形の)3つの力がガツンと本当に一つになった時、(太夫、三味線だけの)素浄瑠璃では感じられない盛り上がりが出てくる。滅多にないですが、そういう瞬間は気持ちがいいものです」
近年組んでいる太夫は、20歳下の豊竹呂勢太夫。呂勢太夫は2013年のインタビューで、演奏中に横の清治さんの三味線に突然力が入り、終わると「休憩するなら楽屋でして」と言われた、と語っている。
「僕らの芸は闘い。闘わなくなったら無価値だと教わっていますから。でも彼ももう50代。僕が越路師匠で弾いたのは43までです。同じ演目でも2回目、3回目になってくると我流が出て、良くなるところもあれば、悪くなるところもある。あまりにおかしい時は言いますが、基本的には自由に模索して自分の形を作っていってもらうのがいいのかなと考えています」
芸歴70年。大学に進学したものの2日間くらいしか行かなかったと笑う。文楽一筋で円熟期を迎えたその芸は、舞台の空気や場面の状況を一撥(ひとばち)でガラリと変える。
「それが文楽の三味線では最も大事なことなのでね。三味線に必要な腕力は段々落ちてきて、手が回らなくなっていますが、少ない音でなんとか他の人たちと違うものをと心がけています。年を取ってくると、子供の頃に聞いた名人の、このテンッの音でパッと世界が変わったとか、そういう言い伝えを思い出すんですよ。自分も、できてはいないと思うけれどそうなるよう努力しています」
初代国立劇場での最後の公演となる「令和5年8・9月文楽公演」では呂勢太夫と『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段の“後”を弾く清治さん。菅丞相(菅原道真のこと)の若君・菅秀才の身代わりに自分の息子・小太郎を差し出した松王丸が、我が子の野辺の送り(葬列)をする際の「いろは送り」は哀切極まる名曲だ。
「寺子屋の段の三味線は、太夫の語りに突っかけたり引いたりという手綱さばきが微妙で、そこが難しいところであり魅力ではないでしょうか。最後のいろは送りは10分足らずですが、難曲。清六師匠のいろは送りが素晴らしかったのに対して、自分の演奏はかけ離れていて……。誰かのお葬式の時、皆で並んでいる間ずっと僕の演奏の録音が流れていて、『なんてまずい三味線だろう』『嫌だな』と思っていたことがあるんですよ(笑)。だけどそういう、人を送り出すような曲ですから、国立劇場を送り出すという思いを込めて、力の限り弾きたいですね」
三味線の糸によって削られ、筋が入っている清治さんの爪。自身の切った爪を接着剤でつけて補強しているという。

令和元年11月の文楽公演にて     提供:国立文楽劇場

≫「技芸員への3つの質問」
「技芸員への3つの質問」
【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード
初舞台後、新橋演舞場の文楽公演で『寿式三番叟』をやった時、一番シーンとしている翁の場面で、バチを持ち替えようとしたのか何なのか、バチをバターンと前へ落としてしまったんですよ。演舞場の案内の女の人が取って渡してくれて。血も凍るような思いでしたね。
【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること
それまで朝日座や三越劇場など普通の芝居小屋でやっていたので、最初は国立劇場の堅い雰囲気に「お役所か博物館みたいだな」と感じました。でも音の響きが良くて今では好きです。二代目もできたらこれに近い音響の建物にしていただきたいなと思います。
【その3】オフの過ごし方
ビリヤードを家に置いていて、たまにやります。あとは車が好きなので、目的なしにその辺を走ったりしています。

取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)

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