堀込泰行

堀込泰行

大変だったけど、
退屈したことは一度もなかった

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第31回目は兄弟ユニットのキリンジでデビューし、脱退後もソロ活動を続ける堀込泰行が登場。自身の表現したい音楽を追い続け、30年弱も音楽活動を続けられている理由と自身のキーパーソンについて語る。

音楽に触れる環境としては
恵まれていたと思う

1996年に兄の堀込高樹さんとキリンジを結成されましたが、それ以前のお話からうかがいたいです。泰行さんが音楽に触れるようになったきっかけは高樹さんの影響ですか?

兄の影響もありますが、父親が音楽好きで家ではジャズやカントリーなどが鳴っていたんです。そんな環境の中で育ち、兄が小学校の高学年くらいになった時に聴き始めた『ロック名盤100』みたいな作品も含めて、いつも居間ではいろんな楽曲が鳴っていたんですよね。

居間や高樹さんの部屋から音楽が聴こえてくるような環境であったと。

というよりは、居間に大きなステレオがあったんです。当時のスピーカーは2WAYや3WAYが普通だったので、そのステレオを中心に父親がジャズやカントリー、ラテン音楽なんかを流す日もあれば、兄が買ってきたレコードが流れている日もあって。テレビでは『ザ・ベストテン』などの歌番組が盛んだったから、歌謡曲も聴いていましたね。僕は小学校の高学年になってから洋楽も聴き始めて、中学生になってからは“貸しレコ”と呼ばれていたレンタルレコード店でレコードを友達とお金を出し合って数枚ずつ借りて、カセットテープにダビングしていました。そのおかげで触れる音楽の幅が広がったと思います。

音楽に触れる機会が多い環境だったのですね。洋楽も聴くようになったということですが、泰行さんの友人たちは邦楽以外も好きな方が多かったのですか?

近所にひとり、僕と同じように3歳上の兄がいる同級生がいたんです。その同級生と気が合って、ふたりでよく洋楽の話をしながら登校していましたね。その友達がいたこともあって、音楽に触れる環境としては恵まれていたと思います。

兄弟で同い年の友達がいると音楽だけでなく触れるものが似てくることはありますよね。そして、高校時代にはフォークソング部の部長をされていたそうですが。

それは最近ラジオでもよく訊かれますね(笑)。その部活は“フォークソング部”という名前ですが、軽音楽部みたいなものでして。

なるほど。部活では楽器を演奏されていたと思いますが、楽器自体には部活の以前から触れる機会があったのでしょうか?

フォークソング部に入る前の話ですが、父親が入院している時に病室で暇だから弾きたいと言って買ったギターが家にあったんです。そのギターを兄が弾き始めたのですが、兄が高校生になった頃に自分のアコースティックギターを買ったので、余った父親のギターをなんとなく触ってはいました。なので、フォークソング部に入った時点でコードなどある程度は弾けていたんですよね。独学ですが、まったくの素人ではなく入部しました。

部活を始められてからも音楽の幅は広がりましたか?

エレキギターが弾きたいという気持ちで入部したのですが、フォークソング部ではバンドを組ませてもらうまでにアコギをある程度マスターしなければならず(苦笑)。コードを4つほど押さえて、中島みゆきさんの「悪女」を歌うというのが1年生の第一関門でしたね。

軽音楽ではなかなか聞かない行事ですね(笑)。

そうですよね。その後は3フィンガーとかアルペジオ奏法などいくつかの関門を超えるために先輩の前で披露して合否が出るんです。自由曲や課題曲もあったので、全ての関門をクリアする頃には夏休みに入っていて、そこでやっと1年生もバンドを組むという。なので、1年生の部員はその課題で基本的なフィンガーピッキングを覚えましたね。

大変そうですがけど、部活動としては嬉しい気がします。初めて楽器に触れる人にとっては安心感がありますし。

そうですね。先輩にいろいろなコツを教えてもらえますから。

そして、1996年にキリンジを結成され、1998年にはメジャーデビューをされましたが、当時はオンラインツールが主流でもなかったので、2年でメジャーデビューされていることがすごいと思いました。活動開始時からメジャーデビューを目指して動かれていたのですか?

そういうわけでもないですが、ふたりともメジャーデビューをしたい気持ちはありました。いくつかレコード会社や音楽事務所からオファーをいただいたんですけど、所属したNATURAL FOUNDATIONは最初に会った時から“初めはインディーズでやるけど、メジャーデビューすることを考えているので”という話をしてくれたんです。他のところだと、話を訊きに行ったら“このコンピに1曲入れてみて”とか、“オーディションに参加してみないか”いう内容だったんですよね。当時、兄は27歳で僕は24歳。今だと27歳はまだ若いと言われますが、その頃だとデビューするには遅めの年齢だったりもして。そんな状態なのにオーディションからやるのはちょっとと思っていたんです。なので、NATURAL FOUNDATIONがメジャーへの距離が近く、しっかりとプランを考えてくれていたので所属することにしました。

事務所の力も大きかったのですね。そんなキリンジの代表曲「エイリアンズ」は発表から時が過ぎた今でも多くのアーティスト、リスナーに愛され続けている楽曲ですが、制作時はこの楽曲がここまで反響を得ると思っていましたか?

制作した当時はここまで反響があるとは思いませんでした。とにかく歌詞が難産だったので、曲が出来上がった時は特に分からなかったですね。締め切りを伸ばしに伸ばして、ある時の歌入れで歌詞ができていない状態でスタジオに行ったら、そのまま缶詰めにされたりして(笑)。“今日でレコーディングするぞ!”とスタッフに言われても、僕はここに来るまでにいっぱい考えて、絞りきってカラッカラになった雑巾みたいな感じでスタジオに行ってるから、そこからは何も出てこないと分かっているんですよね。僕のほうも自分が悪いのは分かっているけど、出てこないものは出てこないので、半分キレながら“できないものはできないです!”と謝りと怒りが混ざり合った感情だったところに兄からアドバイスを受けたんです。“ここまではカッコ良い感じできているから、サビでは少しベタでもグッとくる言葉を入れたほうがいいんじゃないか?”みたいなことを言ってもらいましたね。スタッフは“帰って、すぐにやれ!”という感じでしたが、“一度、この曲から離れたほうがいいかもね”と兄は言ってくれたりして。

緊迫した雰囲気がスタジオに漂っていたんですね。

そうなんですよ。それで少しの間はこの曲から離れました。次の歌入れの時には埋まっていなかった言葉を埋めて、“これ以上は分からないです”みたいな感じで歌詞を持っていきました。

ご自身の中でも何が良くて悪いのかも分からない状態だったと。

そうです。とにかくその状態で歌入れして、リリースしてからも自分たちでは“いい曲ができたぞ!”という手応えがあったわけでもなくて。そんな中で、“すごくいい曲だね”と言ってくれる人がわりといたんですよ。“どうもありがとうございます”くらいの反応しかできなかったけど、そこから“ディスクユニオンで爆音でかかっていたよ”という情報を聞いたりもしたので、それで“もしかしたらいい曲だったのか?”と自分たちも思うようになりました(笑)。

出しきったものを作っているという自覚があるとはいえ、慌ただしく出来上がった曲だからこそ客観的に聴く余裕もなかったんですね。

本当に余裕がなかったですから。

そのような壮絶な思い出が蘇る楽曲だとは知りませんでしたが、本当に名曲だと思います。

ありがとうございます。そのぶん、頑張って良かったとは思いますけどね。って、他人事みたいな言い方になっちゃたけど(笑)。

OKMusic編集部

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