『人気者で行こう』で示した
電子音楽との融合に
サザンオールスターズの
しなやかさと決意を見る

『人気者で行こう』(’84)/サザンオールスターズ

『人気者で行こう』(’84)/サザンオールスターズ

サザンオールスターズの名盤紹介の2回目。今回は1984年の7thアルバム『人気者で行こう』を取り上げる。ロック、歌謡曲を含めた1980年代を代表する名盤のひとつであると同時に、彼らが日本の音楽シーンにおける現在のポジションを確立するに至った、バンドにとっての最重要作品のひとつだ。時代背景を含めて考えると、サザンオールスターズというバンドの姿勢や本質を垣間見ることもでき、今なお興味深く、味わい深い作品である。

デジタルを無視できなくなった1980年代

「サザンってずっと“海”とか“湘南”のイメージがあるんですけど、時代時代でちゃんと音を変えてるんですよね。デジタルも取り込んでいる。そこがすごいと思うんですよ」。いつだったかも正確な物言いも忘れたが、某アーティストとの取材後にそんな話をしたことを思い出す。その某アーティストとは、サザンオールスターズ(以下、サザン)の下の世代ではあるものの、日本の歴代セールスにおいて上位にランクインしており、当時はものすごい勢いでシーンを席巻していた人物。しっかりと先輩のスタイルを分析しているんだなぁと感心したような記憶がある。

前回、『熱い胸さわぎ』の紹介では、ボサノヴァタッチだの、モータウン風だの、ドゥワップ的なコーラスも入るロッカバラードだの、収録曲を紹介した。そのサウンドはバラエティーに富んだものではあるのだが、基本は生音だ。ブラスが入っていたりするが、過度なエフェクトはない。まぁ、サザンがデビューした1978年はYMOがデビューした年で、ようやく一部で電子楽器が使われ出した頃なので、それは当然としても、1980年代にもなると、シーン全体が電子音楽を無視できなくなる。1980年にはそのYMO自体が大ヒットした上、沢田研二の「TOKIO」やジューシィ・フルーツの「ジェニーはご機嫌ななめ」など、電子音楽≒テクノ系歌謡のヒット曲も生まれている。

そんな中でサザンはどうだったかと説明すると、1979年に3rdシングル「いとしのエリー」のヒットによってデビュー時のコミックバンド的な見られ方は払拭されていたが、徐々にシングルのセールスは低迷していった。アルバムも3rd『タイニイ・バブルス』(1980年)、4th『ステレオ太陽族』(1981年)と、いずれもチャート1位を獲得しているものの、年間でのランキングは『タイニイ・バブルス』と『ステレオ太陽族』とがいずれも13位で、はっきり言って苦戦している(この辺りのサザンの動向に関しては、やはりスージー鈴木氏の『サザンオールスターズ1978-1985』に詳しく、「キラキラ光る薄っぺらい時代の空気に、サザンは少し乗り遅れた。80年、趣味性と時代性の狭間でサザンは、悩ましい青春時代に迷い込んでいく」とキレのいい文章を寄せている)。

しかし、その低迷期(そう言うほどレベルの低いものではなかったが…)を経て、1982年にはシングル「チャコの海岸物語」がヒット。続く「匂艶 THE NIGHT CLUB」もヒットさせて、さらには5thアルバム『NUDE MAN』も年間で3位という好成績を打ち立てたのだから、その辺はさすがにサザンである。「チャコの海岸物語」を“サザンの歴史上、最低のヒット曲”と発言したとか、『NUDE MAN』を“退屈なアルバム”と評したとか、当時の桑田は歌謡路線への転向がお気に召さなかったのか、ネガティブな発言も残っているようだが、結果的に大衆が支持したのはこちらだったという事実は、その後のサザンの音楽性に多大な影響を与えたと思われる。

煎じ詰めればそれは、“自分たちがやりたい音楽をやる”から、“多くの人たちが聴きたい音楽をやる”ことへの移行であっただろう。もちろんオンデマンドに大衆が欲する音楽を只々提供するのではなく、自らの趣味趣向を完全に損なうことなく、そこにポピュラリティを加える。元々キャッチーな資質を有したバンドであったことは最初期のテレビでの露出からも明らかで、その移行が造作もない行為だった…とは思わないが、サザンは当時流行のデジタルサウンドもその体内に取り込んだ。最初に取り組んだ作品が1983年の6thアルバム『綺麗』。しなやかに時代に沿っていく。

OKMusic編集部

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