サザンオールスターズはどうして
国民的バンドと呼ばれるのか?
『バラッド3
〜the album of LOVE〜』
収録曲の私的一考察

『バラッド3 〜the album of LOVE〜』(’00)/サザンオールスターズ

『バラッド3 〜the album of LOVE〜』(’00)/サザンオールスターズ

6月15~16日、東京ドームでの2日間の公演を以て、サザンオールスターズの全国ツアー『“キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!”だと!? ふざけるな!!』が無事終了。デビュー40周年をきっちりと締め括った。当コラムでは、本ツアーがスタートする直前から3週連続で彼らの名盤(『熱い胸さわぎ』『人気者で行こう』『Young Love』)を紹介してきたが、ツアーの大団円を記念して、今週はサザン名盤紹介の番外編をお届けしたいと思う。私的“サザンオールスターズ=国民的バンド”論。

いつから、どうして
“国民的バンド”に?

今回は、3月13日付けの当コラムで『熱い胸さわぎ』を取り上げた際、その中で触れた“サザンオールスターズ(以下サザン)=国民的バンド”問題に決着を付けたい。“サザン=国民的バンド”問題とは、サザンはいつから“国民的バンド”となり、また何を以て“国民的バンド”と言われるようになったのか…である。
視聴者投票によってスナック菓子やアイスクリームのランキングを決定するTVのバラエティ番組がある。あんな風に“国民○万人がガチで投票! バンド総選挙”なるものがあったとして、そこでサザンが1位になっていたのなら、まだサザンが“国民的バンド”であることに少しはうなずけよう。しかし、ご承知の通り、過去にそんなことはなかったわけで、我々は何の裏付けがないまま、“サザン=国民的バンド”と呼んでいる。いや、そう呼ばせられてると言ってもいいかもしれない。
『熱い胸さわぎ』の回では、セールス面においてサザンを上回るバンドはいくつもあること。それほど多くの全国ツアーを行なってきたバンドではないこと。さらには、サザン自体、バンドとしての休止期間も長く、案外コンスタントに活動していないこと。それらのことから、そうしたバンドを“国民的”と位置付けていいものかと難癖を付けた。ほとんど言いがかりの類いであることは承知だが、とは言え、そう考えてしまうともはや納得もいかぬ。納得のいかないままでは気持ち悪いというわけで、自分が吐いた難癖に自らがその根拠を示そうと相成った。その酔狂なお遊びに、しばしお付き合いいただければ幸いである。

バンドのシングルで最高売上の
「TSUNAMI」

まずサザンはいつから“国民的バンド”と呼ばれようになったのか…である。もちろんジャストこの日から…という記念日みたいなものはない。ないが、これは2000年のシングル「TSUNAMI」のヒットがそう形容される最大のきっかけであったと見て間違いなかろう。
「TSUNAMI」はサザン史上最大のヒット曲である。2000年度の年間シングル売上ランキング1位。何と翌年の2001年度でも年間4位であった。そればかりか、平成のシングル売上ランキング2位で、昭和を含めた歴代シングル売上ランキングでも4位だ。ちなみに、平成のシングル売上の1位はSMAPの「世界に一つだけの花(シングル・ヴァージョン)」。歴代シングル売上の1位は「およげ!たいやきくん」で、2位はぴんからトリオの「女のみち」、3位は「世界に一つだけ~」であるからして、平成においても歴代でもバンドでのシングル曲の売上最上位はサザンの「TSUNAMI」であることは紛れもない事実である。
それだけでも十二分なのだろうが、何しろ「TSUNAMI」は第42回レコード大賞受賞曲である。最近はいろいろと揶揄されがちなレコード大賞であるが、何だかんだ言っても、日本音楽市場、エンタメ業界におけるひとつの権威であることに違いはない。少なくとも前世紀、2000年くらいまでは確実にそうであった。その賞をサザンが獲得したことで、誰憚ることなく、その存在が“国民的”と言われるだけの礎となったと言ってもよかろう。
また、サザンにとってレコード大賞受賞はかなり大きな意味があったことと勝手ながら想像する。それは、サザンが「勝手にシンドバッド」でデビューした1978年に遡る。「勝手にシンドバッド」に関しては3月13日付けの当コラムでも述べた他、さまざまな方が述懐しているように、そのインパクトはそれまで誰も体験したことのないほど強烈なものであったのだが、芸能シーンでの評価は低かったと言わざるを得ない。この1978年の暮れ──江川卓氏の”空白の一日”の翌日だったと思うので確か1978年11月22日のはず──その年の大みそかに決定する第20回日本レコード大賞各賞のノミネートが行なわれた。そこでサザンは新人賞の5組の選から漏れている。しかも、最後の5組目を決める決戦投票で破れているのだ。1978年は新人が豊作であったことは事実だが(世良公則&ツイストが新人賞の受賞を辞退していたりもする)、あの時のサザンの話題性と「勝手にシンドバッド」の売上を考えると、最優秀新人賞は獲れなかったにしても、その年の新人賞にノミネートされた歌手たちに大きく引けを取っていたとは思えない。選に漏れた瞬間、憮然とした表情でテレビに映し出される桑田佳祐を見て、こちらも我がことのように憤ったことを覚えている。
サザンは翌年の1979年には『10ナンバーズ・からっと』でベスト・アルバム賞を受賞するなど、アルバム関連で日本レコード大賞に縁はあったのだが、「TSUNAMI」までは楽曲単位で日本レコード大賞にエントリーされることはなかった。サザンの評価を一変させた「いとしのエリー」(1979年)もエントリーすらされていないし、「真夏の果実」(1990年)で最優秀ロック・ボーカル賞を獲得しているものの、その後のヒット曲、「涙のキッス」(1992年)、「LOVE AFFAIR~秘密のデート」(1998年)にしても無縁だった。今では信じられないことだが、巷の人気と(一部の)業界内での評価に明らかな乖離があったと言える。筆者は、その新人賞の一件以来、マネジメントを含めてバンド側が賞レースそのものを辞退していたと勝手に思い込んでいたのだが、2000年の「TSUNAMI」で戴冠。サザン自体が大衆への意識をさらに強くしたのか、特大ヒットとなった「TSUNAMI」を業界自体が無視できなくなったのか、そこにどういった意思・意図が働いたのかは分からない。分からないが、「TSUNAMI」のレコード大賞受賞によって、大袈裟に言えば芸能史の潮目が変わったことは確かではないだろうか。“国民的バンド”と呼ばれるだけの素養はここで充分に備わったと思う。

OKMusic編集部

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