憂歌団の多彩な魅力が詰まった
アルバム『四面楚歌』
憂歌団は多くのミュージシャンに影響を与えた大阪生まれの生粋のブルースバンドだ。ブルース界のカリスマ的ギタリスト、内田勘太郎が5年振りのソロアルバムをリリースしたのは、昨年2014年のこと。復活した憂歌団の他、高校時代からの相棒、木村充揮と憂歌兄弟としてもパワフルにライヴ活動を行なうなど、今なお、そのヒストリーを更新している。彼らの初期の傑作アルバムのひとつは衝撃のデビュー曲「おそうじオバちゃん」(歌詞が差別的だと放送禁止に)や「嫌んなった」、「シカゴ・バウンド」などの代表曲が一気に聴ける初のライヴアルバム『生聴59分』。木村の味わいたっぷりのMCも含めて臨場感あふれるテイクが収録されているが、その翌年1978年にリリースされたアルバム『四面楚歌』は全曲オリジナル曲で構成されたスタジオレコーディングルバムだ。ホーンやストリングスが取り入れられ、それまでの彼らより少し洗練されているテイストになっている作品でもあるが、1曲目「出直しブルース」から憂歌団節全開。これも埋もれさせてはならない名盤である
日本で一番愛されたブルースバンド!?
10代だった自分も関西のブルースが大好きで、当時すでに解散していたウエスト・ロードブルースバンドやブレイク・ダウンなどにハマっていたのだが、憂歌団は中でもドメスティックというか、日本人濃度の高いブルースを奏でるバンドとして強烈な印象を放っていた。1度、聴いたら忘れられない“天使のダミ声”と称される木村のしゃがれまくったヴォーカルとワーキングクラスに焦点を当てた生活感たっぷりの歌詞、内田の粋でブルージーなギターフレーズーー。RCサクセションの忌野清志郎と並ぶぐらい木村の歌声は存在感があり、あらがえない魅力というか魔力のようなものがある。
憂歌団のライヴを学園祭で観たことも忘れられない思い出として残っている。思わせぶりなタイトルが付いていたライヴだったこともあり、学校の音楽好きの中で「憂歌団はもう解散するのかもしれない」という噂が流れ、チケットは飛ぶように売れた。学祭当日、異様な熱気に包まれる中、何曲か歌い終わった木村がタイトルに触れ、「あ、あれは、しばらく東京でライヴをやらないという意味で〜」と説明すると大ブーイング。お菓子やらがステージに投げ込まれるほどの騒ぎとなった。が、もちろん、みんなマジで怒っていたわけではなく、むしろ「解散じゃなくて良かった」とさらに盛り上がり、憂歌団のペースに巻き込まれたのは言うまでもない。
ちなみに憂歌団は1976年にはテネシー州出身の伝説のブルースマン、スリーピー・ジョン・エスティス(翌年に他界)と共演。1980年にはローリング・ストーンズなど数々のアーティストに多大な影響を及ぼした“シカゴブルースの父”と評されるマディ・ウォーターズとも共演を果たしている。冒頭に触れたようにザ・クロマニヨンズの甲本ヒロト、Ken Yokoyama、斎藤和義、BEGINなど、憂歌団をリスペクトしている日本のミュージシャンは数え切れないだろう。音楽のみならず、そのあったかい人柄も含めて日本で一番愛されたブルースバンドと言えるかもしれない。
アルバム『四面楚歌』
ブルースに真っ暗闇で湿ったイメージを抱いている人も多いかもしれないが、そういう先入観を覆してくれるのが憂歌団の楽曲でもある。もともと海外のブルースも“ダイヤの指輪も毛皮も買ってやったのになんでオマエは去っていっちゃったんだ”みたいな歌詞の曲も多く、乱暴な言い方をすれば、要するにめっちゃ人間臭いのである。そして、人生は得るものもたくさんある一方で失うことの連続でもある。そんな時にブルースはまるですぐ近くにいる友人のように「あるよな、そういうこと。生きてれば」って感じで寄り添ってくれる(そこに馴れ合いっぽい同情はない)。彼らの音楽もまさにそういう効能がある。
そんな癒してくれる曲のみならず、憂歌団のエッジが炸裂する「包丁」のような曲が収録されているのも本作の魅力だ。《包丁とぎながら》という歌詞に呼応する研ぎすまされたフレーズ、間奏のボトルネックギターには高揚せずにはいられない。ストリングスを取り入れたロマンチックなバラード「夜明けのララバイ」もメロディメーカーとしての才能を感じさせてくれるし、このアルバムには多角的な憂歌団の魅力が詰まっていると言える。
著者:山本弘子
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